【平将門と天慶の乱】レポート

【平将門と天慶の乱】
乃至 政彦 (著)
https://www.amazon.co.jp/dp/4065155053/

○この本を一言で表すと?

 平将門の少年期から最期までの行跡を当時の日本の状況とともに描いた本

○よかったところ、気になったところ

・学生時代に歴史の教科書で平将門・藤原純友がさらっと出ていて、結構大きな事件に思える割には内容についてほとんど触れられていませんでしたが、この本で平将門の背景や過程に触れることでよく分かったように思えました。
藤原純友についても同時代なのもあってある程度触れられていて背景や状況が分かりました。
当時の人物の立ち回りや状況が少し違うだけでも歴史が大きく変わっていたようにも思え、一連の流れが興味深かったです。

・平将門が新皇を名乗って倒れたことでその後の武士政権のトップが天皇に成り代わろうとせず、天皇を上に立てて実質的な政権を握ることで皇室が存続したという話は、結果論に過ぎず、天慶の乱の影響がそこまであったとは考えづらいですが、面白いなと思いました。

・「将門記」をベースに、「歴代皇紀」や「日本紀略」などからも引用されていて、ところどころ推測が述べられていて、元々文献の少なかった平将門の行跡をうまく追っている本だと思いました。
各所で将門記の作者の意図も推測されていて興味深かったです。

・平将門を研究している村上春樹氏の話がさらっと出てきましたが、面白かったです。
この著者の本のAmazonのレビューで、同姓同名の小説家の村上春樹氏が書いたものだと思って購入して騙されたと書いている人もいて、その方には申し訳ないですが笑ってしまいました。

序章 怨霊伝説を検証する

・平将門にまつわる怨霊伝説の中から、死後すぐの生首伝説、死後300年後の呪い、明治の雨師風伯の招来、大正の大蔵省の怪、戦後のモータープール事件を採り上げて紹介していました。
近現代の明治・大正・戦後の伝説については当時のジョークだったり後付の伝説だったり解釈の違いだったりしてあまり根拠もないそうです。

第一章 蔭子・将門の少年期

・平将門の祖父は桓武天皇の孫高望王で、臣籍降下して平高望になり、平将門の祖父と父は叙位されていたものの、長男の将門は生涯無位無官のままだったそうです。
その理由として、自動的に叙位される21歳になる前に上総国に戻り、遺領を親族と争っていたためだと述べられていました。

・平将門は少年時代に藤原忠平の下で仕え、叙位予定の蔭子の地位に相応しいとされる滝口武士として文武を鍛えていたそうです。

第二章 遺領が招いた争族

・伯父の平良兼と対立して争うこととなり、その原因として平良兼の娘を娶ったことが挙げられていました。
また、平将門の父良持の遺領は製鉄所と放牧地があり、軍事力強化のための重要な土地であるため、ここを押さえておきたい平良兼との坂東平氏の主導権争いでもあったそうです。

・平将門の祖父の平高望は常陸国の嵯峨源氏と協力関係を結ぶため、良持を除いた息子三人を源護の娘に婿入り刺さることで地盤を固めていたそうです。
野本合戦では平将門が軍勢を率いて嵯峨源氏に直談判しにいったところ、平国香・良兼と源扶らに待ち構え、官軍を偽装していて公称を有利にしようとしていて、平将門はこれを撃破して源扶は討ち死にし、源氏方の領地を次々に襲撃して焼き払ったそうです。
当時の公権力は行き過ぎる行使で焦土化することもあったそうですが、坂東では長らくその経験がなく、その影響が後に響くほどの被害があったそうです。

第三章 平良兼・良正の襲撃と源護の策謀

・息子を討たれた源護が娘婿の平良正に復讐戦を訴え、平将門と戦わせたものの敗北し、平良兼を仲間に引き込み、京都にいた野本合戦で討たれた平国香の息子の平貞盛も巻き込み、下野国境合戦で平将門とまた戦い、そしてまた敗北したそうです。

・平貞盛は父親の平国香は嵯峨源氏と平将門の戦いに巻き込まれただけで、平将門が悪いわけではないと考えていたそうです。

・源護は平将門に否があるという告状を朝廷に送っていて、それを受けた朝廷は平将門を検非違使庁に召喚して取り調べを行ったそうです。
承平七年(937年)一月四日の朱雀天皇の元服の大赦でも解放されず、将門記によれば「神仏の感応」、著者の推測では以前仕えていた藤原忠平の厚意によって五月十一日に解放されたそうです。

・京都から帰国した平将門を平良兼が待ち受け、子飼渡合戦になり、平将門は準備も十分にできず敗北したそうです。
その後巻き返すために平将門が決起して堀越渡合戦になり、平将門は急に体調が悪化してまた敗北したそうです。
今度は平良兼が焦土化を行い、平将門の領地はボロボロになったそうです。
更にまた平将門が決起して弓袋山・筑波山合戦になり、平良兼を追い詰めたものの、最終的には平将門が引き上げて平良兼は生き延びたそうです。

第四章 追捕使・将門の勇躍と逆襲

・承平七年十一月五日に追捕の太政官符が発行されたことを、平将門を対象とするものと昔は誤読されていたものの、今では平将門が源護や平良兼らを追補する任務を受けたとする解釈が正しいとされているそうです。
著者の推測では無位無官の平将門が追補使に選出されたのは旧主君の藤原忠平が推したからだとしていました。

・追捕使になった平将門を暗殺しようと平良兼らが夜襲を企てた石井営所襲撃事件で、平将門はわずか10名足らずで80名以上の暗殺部隊の半数を倒して勝利したそうです。

・平貞盛は平将門と戦うことを避けて上洛しようとしていたところ、平将門は平貞盛が讒言しようとしていると考えて襲撃する千曲川追撃戦を行い、初めて平将門と平貞盛が真正面から対決することになり、平貞盛は敗北したものの、本人はなんとか逃げることができたそうです。

第五章 坂東独立の風雲

・関東地方の顔役となり、追捕使としての役目も完全ではないながらも果たしていた平将門が、武蔵国の国司の興世王と源経基らと郡司の武蔵武芝の間のトラブルの仲介に入り、興世王と武蔵武芝の間の和談を取り持っているところに、理由はわからないものの武蔵武芝の後続部隊が源経基の営所を包囲し、源経基は逃げ出して帰京し、源経基は太政官で平将門が謀反したと報告したそうです。
源経基の前に上洛した平貞盛の訴えもあり、真剣に検討されたそうです。

・平将門に事情を聞くための使者に任命された者が動かないなどの怠慢もあり、なぜか平貞盛が使者として平貞盛のもとへ向かうことになり、平将門が会うどころか敵としか見なしていないところで平貞盛も諦めて政略を巡らすようになり、常陸国の国庁で平将門を迎え撃ち、敗北して常陸の国を平将門が滅ぼした状況証拠を作り、謀反の容疑をほぼ確定させたそうです。

・平将門は坂東各国の国司代行を務めて治めれば朝廷の容疑を晴らせるのではと考えて、常陸国から下野国、上野国の国庁を落としていったそうです。

第六章 将門、新皇に即位す

・常陸国の元国司の興世王などの勧めもあり、伝承では八幡大菩薩の巫女から宣託を受けたとして、新皇に即位したそうです。
その前に藤原忠平にあてて弁解の書状を送っていて、その効果がなかったために次善の策として即位したという背景があったのではと著者は推測していました。

・平将門の政府では短期間のうちに行政機関を定め、高度の専門家が必要となる暦日博士以外の役職は任命できていたそうです。

第七章 誰が新皇を殺したのか

・当時の朝廷では、近年に唐・渤海・新羅が続いて滅びたこともあって平将門に朝廷が滅ぼされるのではないかと危機感を抱いていたそうです。

・何度も濫行を繰り返して罰せられていた藤原秀郷と平貞盛が平将門討伐軍として抜擢され、岩船前哨戦、川口村合戦で続けて平将門に勝利し、巻き返しを図った平将門から攻めた猿島郡北山合戦でついに平将門が討たれたそうです。

・平将門敗北後、平将門の兄弟や伴類の追補官符が出され、残党狩りが始まったそうです。

第八章 敗者の声と勝者の宴

・藤原秀郷の経歴や生没年は分かっていないそうですが、子孫は佐野氏、小山氏、結城氏など名族諸氏の祖となったそうです。

・源経基は清和源氏の祖となった人物で武に優れた人物として永く崇敬されたそうですが、実際には部に優れていた形跡はなく、清和天皇の孫ではなくて清和天皇の子の陽成天皇の孫だったそうで、陽成天皇が宮中殺人等で人気がなかったために陽成天皇の血筋でないと謳ったそうです。

・藤原秀郷、源経基以外の人物も、それぞれ英雄譚が語られ、現代まで伝わっているそうです。

終章 神田明神と将門塚の興起

・神田明神に平将門が祀られているという説は根拠がなく、唱門師と呼ばれる民間陰陽の遊芸民が寺社の雑用も担っていて神社に塚が作られていて、「ショウモン」とう響きから「将門塚」となった説が有力なのだそうです。

○つっこみどころ

・帯に「怨霊伝説も徹底検証」とありましたが、さらっと事実関係が述べられているだけで「徹底検証」とは言えないなと思いました。
東京に住んでいる人は結構知っている伝説なので、気を引くにはよいフレーズかもしれませんが、期待させておいて落胆させるフレーズだと思います。

・平将門側から書かれた将門記をベースに書いた本だからか、ほとんどのケースで平将門が正しかったという視点で書かれていたので、この本だけでこの時代の歴史を判断できないなと思いました。

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