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【日本人はなぜ戦争へと向かったのか: 果てしなき戦線拡大編】レポート

【日本人はなぜ戦争へと向かったのか: 果てしなき戦線拡大編】
NHKスペシャル取材班 (著)
https://www.amazon.co.jp/dp/4101283761/

○この本を一言で表すと?

 日本が戦争に突入してから、なぜ戦線を拡大していったのかをまとめた本

○面白かったこと・考えたこと

・戦争の方針すらはっきりと立っていない状態で開戦し、緒戦の思わぬ成果から方針を拡大し、陸海軍で方針が全く揃わず、甘い想定で戦争を進め、連合軍に攻められるフェーズになっても方針を変えず、完全な敗戦まで止めることができなかった流れが、いろいろな方面から述べられていました。

果てしなき戦線拡大の悲劇

・戦争を始めるときの厳しい現状の認識と甘い目算、戦争開始後の自存自衛というふわっとした戦争目標と収束したい陸軍と拡大したい海軍の方針対立、相反する陸軍と海軍の方針の折衷案の大綱作成、決められない連絡会議など、戦争開始早々に行き詰まっている様子が述べられていました。

・「大東亜共栄圏」で利益を得ようとする企業、搾取を前提として利益計画を立てる企業の様子、陸軍と海軍、特に陸軍の権益確保状況なども述べられていました。

・物資動員計画も船舶貸与計画も、陸軍と海軍の引っ張り合いで配分が決められる様子が述べられていました。
その後のミッドウェー海戦での敗北からガダルカナル島での敗北等、悲惨な戦いが継続する様子が述べられていました。

<なぜ、戦争を終わらせることができなかったのか>

泥縄式の戦争指導とふたつの軍隊

・開戦前は慎重に考えていた軍上層部も、緒戦で想定以上の成果が上がると舞い上がって相手を見くびるようになっていったそうです。

・兵站線を考えて事態を収束させたい陸軍と、戦線を拡大し、オーストラリアまで進出する考えの海軍で方針が対立し、議論を続けた上で「今後採るべき戦争指導の大綱」で「長期不敗の政戦体制を整えつつ、機を見て積極的方策を講ず」という百八十度異なる意見の折衷案が出来上がったそうです。

・陸軍と海軍は統帥権という体制のもとで完全に対等であり、両者の意見を調整する人がいないことが原因だったそうです。
陸海軍の不統一は北進論と南進論の対立、石油の各軍における備蓄、船の抱え込み、陸軍航空隊と海軍航空隊の同士討ちなどに繋がったそうです。

・大本営政府連絡会議でも特に意思統一はできないままで、連合軍がニューギニアからフィリピンに北上しようという時期でも現場の言うがままで、インパール作戦や中国での打通作戦などに兵力と弾薬を消費するような事態になったそうです。

・「大東亜共栄圏」もその範囲すら開戦前に決まっておらず、開戦後に「大東亜建設審議会」を立てて議論するものの、意見を統一できずにすべての論を提起するだけで終わったそうです。

・海軍省と軍令部が同程度の力をつけたものの、演習時だけ編成するはずだった連合艦隊も力をつけ、山本五十六の意見を却下できずにミッドウェー海戦に向かって敗北したそうです。

・一九四三年にはもう日本は攻められる側になっていたにもかかわらず、方針も変えることができずに準備を整えたアメリカ軍にいいようにやられたのは、日本は平時に有利な調整型のリーダーしかおらず、戦時に対応できるリーダーがいなかったことが原因と分析されていました。

“大綱”という名の無方針とリーダーシップの不在

・緒戦に想定以上の大勝利をして民衆は大いに盛り上がったものの、軍上層部ではそこまで楽観的ではなかっただろうと述べられていました。
特に陸軍は戦争の終結を考え、ドイツが連合軍を追い詰めれば和平の目が出ると期待していたそうです。

・陸軍は長期不敗の体制を最初から志向して、守りに入っていたそうですが、海軍はアメリカを叩き続けること、緒戦の戦果をできるだけうまく利用したいという発想でいたそうです。
その後も陸海軍の方針がまとまらないまま「今後採るべき戦争指導の大綱」が作成され、上層部の誰もが戦争の全体図を描けない状態で進んでしまったそうです。
戦争指導の大綱には連絡会議でも疑問を持たれていたものの、首相の東条英機も疑問の発言をしたのみでそのまま承認されてしまったそうです。

・平時は調整型のまま、下から上がってきた内容を承認するだけで済むとしても非常時はやり方を変えることが必要になることが述べられていました。
指導者が決められないというのは戦前から続いていたらしいですが、その弊害が大きく出たのが太平洋戦争だったそうです。

・戦争は止めることが難しく、終わらせるタイミングを逸したらもう手の打ちようがなくなってしまうことが述べられていました。

・教訓として、危機の時には平時と違う感覚や意識で立ち向かわないと、物事はうまくいかない、と述べられていました。

南方占領地域と大東亜共栄圏の実態

・戦地への受命企業が軍人や旧軍人の天下りポストになることから、業者による軍人の接待漬けなども行われていたそうです。

・企業幹部には旧軍人が名を連ねており、現地法人として地域独占を狙う企業も多かったそうです。
企業の認可を現地の軍が握っていて、更に陸軍と海軍でその認可を争う事態になり、その現地で算出する資源を軍が確保する必要性と相俟ってかなりの対立が見られたそうです。

・受命企業が進出した後に、軍政下の現地では当初の想定通りに行かず、到底利益を生み出せない状態で抜け出せない企業なども多かったようです。
戦線拡大によるコスト、統治コストや運送コストなどが考えられないままに、軍事的な面でも経済的な面でもマイナスになるにも関わらず、限界を越えて拡大していったそうです。

“名将”山本五十六の虚実

・山本五十六はいろいろな本で名将として紹介され、戦争に反対だった人間として有名で、私も「聯合艦隊司令長官 山本五十六」の映画を見たりして、そういった人物だと思っていましたが、実態は異なるのではないかと問題提起されていました。

・ロンドン海軍軍縮会議では山本五十六が随員として出席して、当時の海軍を代表して条約調印に反対していたそうです。
その後、山本五十六は航空軍備の強化に本格的に乗り出し、航空本部の技術部長として関わり、航空本部長にもなっていたそうで、当時有力だった艦隊派とは異なり、航空派といっていいような異色の人物だったそうです。
ロンドン軍縮会議の後で「米と戦争になったらまず空襲でもって一撃をする」というくらいアメリカに対して反感をもっていたそうです。

・山本五十六が防共協定に反対したことで三国同盟にも反対していたと一般に捉えられていることについて、この2つは全く内容の違うもので、あくまで反米戦略として後背のソ連と同盟する方が優位なため、ソ連と敵対するような協定に反対する、という文脈だったと述べられていました。

・対米英協調という言葉についても対米協調と対英協調は分けて考えるべきで、山本五十六は対英協調ではあったものの、アメリカのペリー来航に対して復讐心をもっているくらい対米協調からは遠かったそうです。

・海軍が日独伊同盟賛成に意見を翻したから成立したと批判があるそうですが、海軍は日独伊同盟に反対どころか、ドイツ海軍との結び付きが強く、山本五十六がロンドンの帰りにベルリンに寄ってヒトラーに会ってほしいと言われるくらいだったそうです。
イタリアも海軍五大国の一つでイギリスに対する牽制になるということで同盟相手として良好だったそうです。

・山本五十六の「半年や一年は暴れてみせる」発言について、米国海軍の成長度合いからそれくらいが限界という目算と、海軍全体の敵の過小評価が根拠にあったそうです。

・総括として、山本五十六が名将という評価はあってもいいが、よく言われる対米非戦論者ではなく、また失敗もしている人物であることについて述べていました。

なぜ、戦線は拡大したのか

・真珠湾攻撃は当然の成功ではなく、米国の反撃を受けていれば石油缶の大炎上で大きな損害を被っていた可能性もあり、実は薄氷を踏むような戦闘であって軍前の要素が強かったことについて述べられていました。

・戦線の拡大を阻止できなかった問題について、政治体制上の問題では、統帥権の独立と、現場の連合艦隊に大きな権限が与えられたこと、制度設計として相互牽制することが重要視されていたため、権限を持ったリーダーが掣肘できるような制度ではなかったこと、制度設計時には元老がそのリーダーとして機能していたが、最後の元老西園寺公望は開戦前に死亡していたことなどが挙げられていました。

・政治主体の問題として、陸海軍の戦略方針が無謀なものであったこと、昭和天皇が勝利に幻惑され、宮中の木戸幸一も異議なく承認していたことなどが挙げられていました。
明治憲法体制自体が制度疲労・機能不全に陥っていたと結論付けられていました。