【後醍醐天皇】レポート

【後醍醐天皇】
兵藤 裕己 (著)
https://www.amazon.co.jp/dp/4004317150/

○この本を一言で表すと?

 太平記全編の校註本の著者が後醍醐天皇の即位前から死後についてまで様々な観点で述べた本

○よかったところ、気になったところ

・後醍醐天皇が決起して鎌倉幕府を終わらせて建武の新政を敷いて、すぐに足利幕府にとって代わられる、という流れは日本史でよく出てきますが、どういった立ち位置で天皇になり、どういった考えを持ち、どのような体制を敷いたのか、新政がすぐに終焉を迎えたのは何故だったのかなどはあまり考えたこともなかったです。
背景やどのような動きをしていたのか、どのような人物に影響を受け、どのような人物を動かしていったのかなど、各章で詳細に説明されていて、同時代に対する印象が変わりました。

第一章 後醍醐天皇の誕生

・後嵯峨天皇の息子兄弟が対立し、交互に天皇を輩出することになってから、大覚寺統の兄の後二条天皇の急死で持明院統の花園天皇が即位し、後二条天皇の息子を邦良親王に譲位することを条件に一代限りの天皇として後醍醐天皇(尊治親王)が10歳年下の花園天皇の皇太子になり、西園寺実兼の娘禧子を密かに盗み取って懐妊させ、自身の立場を強化し、後宇多院政を停止して天皇親政をスタートさせたというのはかなりアクティブだなと思いました。

第二章 天皇親政の始まり

・後醍醐天皇は様々な学問を再興し、宋学に熱心になり、宋学などの学問に詳しい日野資朝や日野俊基などの中流の貴族を抜擢していたそうです。

第三章 討幕計画

・後醍醐天皇が無礼講で様々な地位の者と交流しながら討幕計画を立てるも、内通者が多く出て正中の変と呼ばれる反乱は阻止され、日野資朝や日野俊基は処刑され、より慎重に計画を練るようになったそうです。

第四章 文観弘真とは何者か

・文観という真言僧と律僧を兼ねた人物が「立川流」という邪道の真言宗を信仰しているという説が一般に信じられているが、実際は真言宗と律に通じた高僧だったことが述べられていました。
この文観は無礼講による様々な層の人脈の開拓を促進させる役割を果たしていたそうです。

第五章 楠正成と「草莽の臣」

・楠正成や名和長年などの在野の人物は武装商人等の職にあったこと、臣ではなく民の人材との交流で大きな勢力を築き、討幕を果たしたことが書かれていました。

第六章 建武の新政とその難題

・建武の新政では後醍醐天皇自身が綸旨で支持を出したり裁判で裁いたりすることが、キャパシティオーバーで政治が回らなくなり、後醍醐天皇が生まれや身分を無視することで保守的な元々地位の高い貴族の不満が溜まったり、運営が行き詰まっていったそうです。

・建武の新政は宋学を基本として進めたそうですが、宋とは異なり科挙制度がないために民間に知識層が育っておらず、政治を回す能力を持つものが高位の貴族等に限られていたことなど、環境面の原因が挙げられていました。

・後醍醐天皇による既得権や世襲制の打破、家柄や門閥の否定は「物狂」として嫌われ、その対抗馬として足利氏が離反し、足利氏が北朝を立てることで朝敵ではなく対等の戦いとされたそうです。

第七章 バサラと無礼講の時代

・身分や序列が無化される茶寄合や無礼講で世俗的なしがらみ以外の人脈が生まれ、佐々木導誉を始めとする派手な格好やイキな振る舞いをするバサラが広まり、それを制するために建武式目でバサラが禁じられていったというのは、上下の境目をなくすことが下剋上の風潮を生み、境界をなくしてしまうことと、その効果を恐れる保守的な行為の貴族や幕府の動きなどがよく物語っているなと思いました。
それを主導していたのが後醍醐天皇だったというのは、この人物の常識外さが伝わってくるなと思いました。

第八章 建武の「中興」と王政復古

・後醍醐天皇の無礼講やその後の政策により、臣と民を混在させてまとめて考えることが「臣民」という考えを生み、幕末・明治に活性化していったそうです。
戦前の国体思想の根源の一部でもあったというのは、ある程度当てはまるように思えました。

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