【文部省の研究 「理想の日本人像」を求めた百五十年】レポート

【文部省の研究 「理想の日本人像」を求めた百五十年】
辻田 真佐憲 (著)
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○この本を一言で表すと?

 文部省と明治維新以降に求められた教育の変遷について書かれた歴史の本

○面白かったこと・考えたこと

・内務省文部局、陸軍省文部局、CIE文部局、自民党文部局、日経連文部局と設立以降揶揄され続けてきた文部省の設立以降の歴史が述べられた本でした。
明治維新以降の近現代史の本を他に読んでいても触れられていなかった教育に関する話題やトピックが多くあり、新たにいろいろ知ることができてよかったです。

第一章 文部省の誕生と理想の百家争鳴

・廃藩置県実施の四日後というかなり早めの時期に文部省が設置されたこと、明治維新後すぐに設置された文部省の前身にあたる大学校は東京大学と文部省を合わせたような組織だったものの、国学・儒学・洋学の三派が対立してすぐに瓦解したこと、その後、自由主義的になったり儒教的になったり揺れまくったこと、森有礼が初代文部大臣になって近代的国家主義を目指すものの国粋主義者に襲撃されて死亡したことなど、明治以降、なかなか体制も方針も定まらない時期が続いているなと思いました。

・井上毅が教育勅語を起案し、国粋主義者にも自由主義者にもよいようにとれる文章で作成したセンスはすごいなと思いました。

第二章 転落する文部省、動揺する「教育勅語」

・日本が弱小国家だった明治前半から、帝国主義列強の一角に食い込むほどの強国になるにつれて、弱小国家時代に作成された教育勅語の内容が古いと言われるようになり、文部省が地方の教育行政に携われなかったために管轄する内務省に従属するような立場になり、文部省の幹部も内務省からの出向者で占められるようになり、文部省の役人が三流役人扱いされるようになっていったそうです。

・元老の西園寺公望が文部大臣に就任し、世界主義的思想で近代化を進めようと第二次教育勅語案まで考案したりしていたものの成立しなかったそうです。

・20世紀に入って義務教育の無償化が達成され、就学率は飛躍的に上昇し、文部省が小学校教科書を国定化する動きになったそうですが、第一次国定教科書は内容が合理的でリベラルであり、海外の偉人が紹介され、中世以降の実権を持たなかった天皇などの紹介は省かれていたそうです。

・日露戦争勝利後、日本の国際的地位は高くなったものの、貧富の差が拡大し、社会主義が流行したことを受けて、教育勅語を補完するための「戊辰詔書」が発布され、国内寄りの内容になった第二次国定教科書が作成されたそうです。

・社会教育だと社会主義的な教育と混同されるために通俗教育と呼ばれた教育のため、著名な作家達に優良な世界文学の翻訳が依頼されたものの、森鴎外に依頼された「ファウスト」だけが完成するという惨状になったそうです。

・第一次世界大戦と関東大震災の混乱に対応するため、国家主義的な「国民精神作興詔書」が発布され、のちの昭和天皇が社会主義者の難波大助に狙撃される虎ノ門事件が起きて内閣総辞職になってから、大物の文部官僚岡田良平が文部大臣になり、教育界の左翼的な動きを抑制し、青少年に対する陸軍教育を施すようになったそうです。

・第一次世界大戦と国民精神作興詔書発布の間に第三次国定教科書に改訂されたそうですが、国際主義と国家主義の中間にあたるような内容になっていたそうです。

第三章 思想官庁の反撃と蹉跌

・昭和になり、共産党員の大量検挙、世界恐慌による失業者激増などの「思想国難」「経済国難」に対応すべく、共産主義に対抗する「日本主義」を立ち上げようとしたこと、文部省の機構として社会教育課と学生課が設けられ、思想教育のために肥大化していったこと、国民精神文化研究所が設置され、思想教育のエキスパートである伊東延吉が所長代理となり、国体観念・日本精神のイデオロギーの牙城となったこと、第四次国定教科書はかなり国粋主義的になったことなどが書かれていました。

・天皇機関説事件から教学局の設置、教学刷新評議会の設置で「異端」の学説の取り締りが強化され、「国体の本義」が教学刷新評議会のメンバーが大部分を占める編纂委員により編纂・刊行されたそうです。
更に1941年には国境なき学問を「妄語」と退けた橋田邦彦文部大臣の下で「臣民の道」が編纂され、極度に国粋主義的な第五次国定教科書が刊行されたそうです。

第四章 文部省の独立と高すぎた理想

・文部省が終戦後すぐに「新日本建設の教育方針」を発表して黒塗り教科書で対応しようとしたものの、GHQは満足せずに徹底的に戦時教育や戦時思想に関する文書を禁止し、CIE局長ケネス・ダイクの意向で第二の教育勅語を発布しようとするもダイク局長の失脚で日の目を見ることがなくなり、いわゆる「人間宣言」が発布されたそうです。

・1947年に教育基本法が公布され、1949年に文部省設置法が公布されて戦後教育がスタートしたものの、普遍的過ぎて特徴がなく、その後も理想の日本人像が模索されたそうです。

・日教組が1947年に発足してからは日教組対策も文部省の主要業務になり、内務省のエースと呼ばれた大達茂雄が文部大臣になってから日教組の政治活動の証拠を取り押さえて、教育二法を可決させて優位に立ったそうです。
さらに1956年に地方教育行政法が可決されて文部省は中央集権的な機能を取り戻し、監督官庁として権限を取り戻す戦いを続けることになったそうです。

第五章 企業戦士の育成の光と影

・地方教育行政法施行後、文部官僚の内藤誉三郎によって勤務評定の実施、道徳の特設、学力テストの実施などで日教組に連勝し、期待される日本人像として経済界の要望通りの企業戦士の要件が掲げられるようになったそうです。

・族議員として文教族が強くなると教頭職の法制化や主任制の導入などが進み、日教組の組織率低下なども進んでいったそうです。

・ロッキード事件で田中角栄首相が辞任に追い込まれて以降は文教族も分裂し、教育の荒廃で理想像がまた脚光を浴び、首相直属の臨教審が設置され、文部省の立場が更に弱くなり、個性重視の原則が決められたもののその実装に難があるなど、試行錯誤が続く中で、一方の日教組は分裂して更に弱くなり、文部省の勝利となったものの、1989年のリクルート事件で前文部事務次官の高石邦男が逮捕され、関係する議員も辞職や謹慎を余儀なくされるなどの混乱もあったそうです。

第六章 グローバリズムとナショナリズムの狭間で

・グローバリズムとナショナリズムの両方に対応が迫られる中で、国旗国歌法が制定され、私的な団体である国民会議で時代錯誤な議論がなされ、エリートを育てる裏の意図がある「ゆとり教育」が実施されるなど日教組との争いとは違った対応が必要になり、混乱が続いたそうです。

・2001年には中央省庁再編で文部省は科学技術庁と再編統合されて文部科学省になり、第一次安倍内閣で教育再生会議が諮問機関として設置され、エリート主義や高橋史朗の「親学」のような非科学的で復古主義的な考え方が真面目に議論され、教育基本法・学校教育法・地方教育行政法・教員免許法の改正がなされ、第二次安倍内閣になってからは教育再生実行会議を設置して提言がされているそうです。

・この本の結論として、明治維新から現在まで、普遍主義と共同体主義の相克と調和が一貫して問題になってきたこと、グローバリズムとナショナリズムはどちらかを完全否定するのではなく、バランスを取るべきであること、「理想の日本人像」を否定するのではなく、国家百年の大計として教育に取り組む立憲主義を守るものとして活用していくべきであることが述べられていました。

○つっこみどころ

・「理想の日本人像」が主題とされているはずですが、明治維新以降の教育行政の経緯が述べられているだけでそれほどクローズアップされていないように感じました。最後の結論で急に取り上げられている印象も受けました。

・著者は文部省不要論に反対する立ち位置のようですが、経緯を眺めると文部省不要論が出てもおかしくないように思えました。なくしてしまうとどのような結果になるのか、代替措置をどう取るべきなのか等は難しいと思いますが、海外では教育官庁がない国も多く、教育を国家主導で行うのが正しいのかも疑念の余地があるなと思いました。

・帯に『文部科学省を「三流官庁」と侮ってはいけない!』と大きな字で書かれていましたが、150年間のうちほとんどの時期は「三流官庁」で、現在も継続して「三流官庁」になっていると思えました。

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