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【オスマン帝国―繁栄と衰亡の600年史】レポート

【オスマン帝国―繁栄と衰亡の600年史】
小笠原 弘幸 (著)
https://www.amazon.co.jp/dp/4121025180/

○この本を一言で表すと?

 オスマン帝国の600年をオスマン王家の系譜を軸に書いた通史の本

○この本を読んで興味深かった点・考えたこと

・中世以降のヨーロッパの歴史等で必ずと言っていいほど利害関係者として登場するオスマン帝国について、その興りから終わりまで、オスマン王家の承継を中心に、その事績等が書かれていて、世界史においての位置づけも含め、分かりやすくて面白かったです。

・中学校か高校ではセルジューク・トルコの次にはオスマン・トルコ、というようにトルコの国家としてセットで憶えていましたが、王家も生母はほとんど非トルコ系で、支配エリート層もほとんどが非トルコ系の多民族国家だったことからオスマン・トルコの呼称はふさわしくなく、オスマン帝国と呼ぶことが主流になっている、というのはなるほどと思いました。

・オスマン帝国の600年をその統治構造等から4時期に区分することが主流で、封建的侯国の時代、集権的帝国の時代、分権的帝国の時代、近代帝国の時代に分かれ、この本ではこの時代ごとに各章を当てるという構成になっていて章ごとに確かにオスマン帝国のあり方が変わっていて興味深いなと思いました。

第一章 辺境の信仰戦士

・セルジューク朝の分家のルーム・セルジューク朝がアナトリアで安定した勢力になった後、モンゴルから攻められて属国になり、その後トルコ系の侯国が複数でき、それらの侯国の血統とは程遠い出身のオスマンがイスラム教徒を守る信仰戦士として勢力を大きくし始め、キリスト教戦士集団とも繋がり、建国した、というのが始まりだそうです。
その息子オルハンの時代にビザンツ帝国の要衝ブルサを征服し、ウラマーを宰相として国事に携わらせてムスリム諸王朝の統治技術を導入して、バルカン半島にも進出したそうです。

・オルハンの後継者として、ビザンツ帝国の皇帝の娘の子ハリルと奴隷の子ムラトがいて、数年の王位継承争いの跡でムラトが君主となったそうです。
オスマン帝国では母親の身分が後継者の問題にならず、むしろ外戚等が発生しない奴隷の子供の方が継承することが多かったそうです。
西洋でも中国でも日本でも、世界中でトップの姻戚が権力をもって治世が乱れることがどの時代でもありましたが、奴隷の子供が王位を継承していくというのは、それを排除できる見事な一手だなと思いました。

・ムラト一世は外征でかなり活躍したそうですが、その外征を支えた軍事力として元キリスト教徒奴隷によって構成されたイェニチェリが大きな要因だったそうです。
官僚としても奴隷が活用され、それなりの権限を与えながらも身分は奴隷のままという仕組みは、統治上は君主にとってかなり有利に働きそうだなと思いました。

・ムラト一世がセルビア人貴族に暗殺された後、兄弟殺しの後に継承したバヤズィト一世は稲妻王と呼ばれ、南東部の侯国を除いてアナトリア統一を成し遂げ、ニコポリス十字軍を退けるなど、軍事的成功を収めたものの、ティムールとのアンカラの戦いで敗北し、捕虜になって敵地で死亡することになり、オスマン朝は10年間の空位時代を迎えたそうです。
その後4人の王子の争いになり、メフメト一世が勝利して即位するものの、王子を名乗る偽ムスタファの乱を鎮圧できないままに没して、ムラト二世が継承したものの弟との争いがあり、それを制してようやく落ち着いたそうです。

・メフメト一世とムラト二世の時代からキリスト教徒臣民の少年を徴用する人材登用制度デヴシルメと奴隷身分でありながら支配エリートになるカプクル(王の奴隷)が本格運用され始めたそうです。
更に、自由人のムスリム戦士に土地の徴税権を与え、その代わりに戦力とするティマール騎兵制度も導入したそうです。

・ムラト二世は後継者と見なしていた王子が怪死してから12歳のメフメト二世に譲位したものの、国を治めきれずにムラト二世が復位し、その後改めて18歳になった「征服王」メフメト二世が二度目の即位することになったそうです。

第二章 君臨する「世界の王」

・「征服王」メフメト二世は二度目の即位後、まず兄弟殺しから始め、これが以降習慣化していったそうです。
兄弟殺しの後はビザンツ帝国の首都コンスタンティノポリスを征服し、イスタンブルと名前を変えてオスマン帝国の拠点とし、ハレム・内廷・外廷で構成されたトプカプ宮殿を建て、建国からオスマン朝に仕えていたチャンダルル家のハリル・パシャを処刑し、キリスト教徒奴隷のカプクルを宰相に任命するようになり、政治の仕組みを変えていったそうです。

・メフメト二世の時代には、ハンガリーの英雄フニャディ・ヤーノシュの抵抗でベオグラードは落とせず、それ以東の征服となり、アルバニアではオスマン帝国の人質として育ちながら逃亡してアルバニアで勢力を築いたスカンデル・ベグの抵抗があり、スカンデル・ベグの病没後に併合し、ルーマニア南部のワラキア公国の串刺し公ヴラド三世の抵抗に対してはヴラド三世の弟のラドゥを反ヴラド派のワラキア貴族とともに公に据えて追い出し、ワラキア公国を属国とし、白羊朝のウズン・ハサンをきわどい接戦の末に制し、49歳で陣没するまで闘い続けたそうです。

・メフメト二世の息子バヤズィトとジェムも争い、バヤズィトが制してバヤズィト二世になり、「聖者王」として文化政策で成果を残しながらも、イランの地で勃興したサファヴィー朝への対応で後手に回り、指示が弱くなり、王子間での争いを制したセリムに退位させられ、セリム一世が取って代わったそうです。

・「冷酷王」と呼ばれたセリム一世はサファヴィー朝とのチャルディランの戦いで勝利し、アナトリア南東部に残された二つの侯国を征服し、エジプトのマルムーク朝を滅亡させ、大きく版図を広げたものの在位8年で黒死病によって死去したそうです。

・セリム一世の跡を継いだ「壮麗王」「立法王」スレイマン一世は、ヴェネツィア出身のイブラヒムを抜擢として右腕とし、ロードス島を征服し、ハンガリー遠征でベオグラードを攻略し、首都ブダを陥落させ、ウィーンを包囲するも撤退するなど、ハプスブルク帝国との争いに繋がり、フランスにカピチュレーション(通商特権)を恩恵として与え、サファヴィー朝との争いでバグダードを支配するようになったそうです。
サファヴィー朝遠征から帰還して間もなく、寵臣イブラヒムを処刑し、ウクライナ出身奴隷の寵姫ヒュッレムが重用されるようになり、ヒュッレムのためにハレムを増築し、奴隷身分から解放して正式に結婚し、第一夫人の息子でスレイマン一世の後継者として有力だったムスタファを突然処刑させ、ヒュッレムの息子であるセリムとバヤズィトの二人が後継者争いをしてセリムが勝利し、スレイマン一世死去後にセリム二世として即位したそうです。

・セリム二世の時代ではキプロスを征服し、その後レパントの海戦で敗北するものの地中海での利権を得てヴェネツィアから貢納を得ることになり、エディルネに巨大なセリミエ・モスクを建築し、イスラム長老エビュッスウード・エフェンディの主導でウラマーの位階システムであるイルミエ制度によりウラマーを組織化して支配体制に組み込み、「柔らかいイスラム法」として柔軟に対応できるようになったそうです。

第三章 組織と党派のなかのスルタン

・セリム二世の跡を継いだムラト三世はスレイマン一世、セリム二世の時代を支えてきた大宰相ソッコルを暗殺し、イラン遠征やハプスブルク帝国との長期戦争など、東西で長期的な争いを抱えるようになったそうです。
政治面ではティマール騎兵の治めるティマール地が免税地になっていたところ解体して徴税請負制にして税収を得られるようにした一方で、元ティマール騎兵や当時の寒冷化で打撃を受けた農民の反乱が多発するようになったそうです。

・オスマン二世の時代には肥大化していたイェニチェリ軍団の引き締めを図ったものの、ポーランド遠征に失敗して権威が失墜したのちにイェニチェリ軍団の蜂起でオスマン二世が処刑されることになったそうです。
この初めてのスルタンの弑逆は軍規の弛緩等ではなく、イギリスの清教徒革命や名誉革命のような、分権化の結果とみなされているそうです。

・11歳のムラト四世が母后キョセムの力により即位し、次にその末弟イブラヒムが即位してクレタ島遠征で失敗すると、イスタンブルで母后・有力政治家たち・イスラム長老・イェニチェリ軍団が争い正教が不安定になり、イブラヒムの息子がメフメト四世として6歳で即位してイブラヒムは叛徒によって絞殺され、メフメト四世の母親トゥルハンが支持されるようになると母后キョセムが暗殺され、トゥルハンにより任命された大宰相キョプリュリュ・メフメト・パシャが徹底的な粛清によってイスタンブルの治安を回復し、トプカプ宮殿から独立した大宰相府で行政機能を構築し、「軍人の帝国」から「官僚の帝国」となっていったそうです。

・メフメト四世は第二次ウィーン包囲戦で壊滅的な敗北を喫して、神聖同盟との長い戦いを強いられるようになり、首都でもスルタンへの不満から騒乱が起き、弟のスレイマン二世に譲ることになったそうです。

・スレイマン二世、アフメト二世の病死による短い治世の後に継いだムスタファ二世はオーストリアへの親征で成果を上げたものの、ハプスブルク軍の名将オイゲンの奇襲により壊滅的な敗北を喫し、和平条約で領土を大幅に削られることになったそうです。
ムスタファ二世がエディルネで行動し、エディルネに首都機能を移そうという気配があったことから「オスマン帝国の名誉革命」と呼ばれるエディルネ事件に発展し、弟のアフメト三世が即位し、「チューリップ時代」と呼ばれる文化成熟を迎えたそうです。

・東方のサファヴィー朝で「イランのナポレオン」とも呼ばれたナーディル・シャーによって軍事的失態を被るとアフメト三世が退位させられ、甥のマフムト一世が即位し、チューリップ時代のような平和な時代になったそうです。

・アーヤーン(地方名望家)と呼ばれる様々な背景を持つ有力者が地方で勢力を持つようになり、地方が独自に力を持つようになっていたそうです。

・フランス革命の年に即位したセリム三世はニザーム・ジェディード(新体制)改革として軍制を主とした改革を実施するものの、アーヤーンやイェニチェリの抵抗から失敗し、退位することになり、その後ムスタファ四世が継ぎ、ニザーム・ジェディードの支持者だったアレムダール・ムスタファ・パシャが手勢を率いてイスタンブルに進軍すると、ムスタファ四世は従兄弟のセリム三世と弟のマフマトを処刑することで王家唯一の男子になって廃位を逃れようとして、セリム三世の殺害に成功するもののマフムトには逃れられ、マフムトが即位してマフムト二世になったそうです。

第四章 専制と憲政下のスルタン=カリフ

・「大王」「異教徒の帝王」「イスラムの革新者」と呼ばれたマフムト二世は、まずアーヤーン達と「同盟の誓約」と呼ばれる協定を結び、アーヤーン達の権利を認めることになりながら、まずアレムダールをイェニチェリ軍団が襲うことを見逃し、アーヤーンを徐々に切り崩して勢力を削ぎ、セリム三世の轍を踏まぬようにイェニチェリ軍団の要職に自身の支持者を配して基盤が整った後に新式軍団を創設してイェニチェリの反乱を待ち、反乱を鎮圧してイェニチェリ軍団の正式に廃止し、軍制も中央行政も近代化していったそうです。

・国内の改革には大きな成果を上げたものの、対外的には厳しい状況が続き、セルビアやギリシャの反乱、フランスのアルジェ侵攻、エジプト総督メフメト・アリの半独立政権成立、エジプト軍への大敗など、大変だったようです。

・マフメト二世が結核で亡くなったのち、跡を継いだ息子のアブデュルメジト一世はタンズィマート改革としてスルタンの意志で財産没収や処刑を容易にできる状況から臣民の権利を確保し、近代的官僚制に移行し、司法・文教制度の改革も行われたそうです。
クリミア戦争で英仏に大きな借りを作ったため、莫大な戦費の負担に加え、非ムスリム臣民の待遇を大幅に改善する改革を実行することになったそうです。

・アブデュルメジト一世が結核で亡くなったのち、跡を継いだ弟のアブデュルアズィズは専制を求めて強権化を進めたものの、財政危機に飢饉とヨーロッパの恐慌が重なって債務不履行を宣言することになり、改革派将校のクーデターで廃位させられ、アブデュルメジド一世の息子のムラト五世が継ぐもののすぐにその弟のアブデュルハミト二世に変わり、セルビアとモンテネグロとの紛争に端を発したバルカン問題を契機として列強が介入してきたために憲法制定で近代化を示す必要があり、憲法を公布したもののロシアに侵入され、かなり不利な条約を結ばされた上に憲法を停止することになり、テクノクラートの元での専制を敷き、パン・イスラム主義やイスラム的価値観を利用した国民統合を図る中で、経済や文化もそれなりに充実していたそうです。

・青年トルコ党による革命によりアブデュルハミド二世は退位させられ、弟のレシャト(メフメト五世)が即位し、憲法改正により君主権限のほとんどが制限される第二次立憲君主制が始まるも、列強に領地を削られ続け、バルカン戦争、第一次世界大戦を経てついにオスマン帝国の解体に繋がったそうです。

・ムスタファ・ケマルによってトルコ共和国が建国され、最後のカリフであるアブデュルメジド二世はトルコから追放されたそうです。