【承久の乱―真の「武者の世」を告げる大乱】レポート

【承久の乱―真の「武者の世」を告げる大乱】
坂井 孝一 (著)
https://www.amazon.co.jp/dp/4121025172/

○この本を一言で表すと?

  武者の世となってから承久の乱以後に至るまでの流れの中で承久の乱を描いた本

○面白かったこと・考えたこと

・「承久の乱」といえば、源氏の三代が終わり、後鳥羽上皇が主導権を握ろうとして、北条政子の演説で幕府が盛り返して勝利、という単純なイメージを持っていましたし、源実朝や後鳥羽上皇についても単純なイメージしか持っていませんでしたが、この本では承久の乱を主題として、院政の開始、平家の台頭と衰退、鎌倉幕府成立など、承久の乱に至るまでの背景の説明に全ページの半分ほどが割かれていて、承久の乱までの幕府と朝廷のあり方、承久の乱前後で何が変わったのかなどがよく分かりました。

序章 中世の幕開き

・摂関政治から白河上皇が主導権を奪って院政がスタートし、鳥羽上皇が継いで、保元の乱・平治の乱を経て後白河院政、平家の世の中に代わっていった歴史の流れが書かれていました。

第一章 後鳥羽の朝廷

・源頼朝の挙兵から平家滅亡、鎌倉幕府成立と、後鳥羽院政の興隆までの流れが書かれていました。

・源頼朝は対朝廷への政策に失敗し、後鳥羽天皇が譲位して上皇になってからは、多芸多才な能力を発揮して朝廷の力が強くなっていったことが書かれていました。
後鳥羽上皇が和歌、蹴鞠等に優れ、武道にも通じて、新古今和歌集の編纂や朝廷儀礼の復活などにも成功していった、かなりの能力を有していた人物だったことが書かれていました。

第二章 実朝の幕府

・三代将軍の源実朝は歌人であまり武士っぽくなく、すぐに甥の公暁に殺されたイメージがありましたが、将軍になってから16年間の治世の期間があり、文人寄りであっても柔弱ではなく、泉親衡の乱や和田合戦の裁定を行ったり、後鳥羽上皇の息子を後継の将軍にする東国の王権構想を進めたり、かなり実力派の人だということを初めて知りました。

・まだ北条家にライバルがいる状態で泉親衡が二代将軍頼家の遺児千手丸を擁して北条義時を倒す計画を立て、それが発覚して三浦一族の和田義盛の息子や甥が関わっていたところを北条義時が挑発のために流罪にし、それから和田合戦になったこと、同じ三浦一族の義村・胤義兄弟が裏切ったために実朝を確保できず、敗れて北条家の地位が確立されたことなど、鎌倉幕府成立からそれほど期間が経たない間に大きな山があったのだなと思いました。

・実朝は朝廷との付き合いがうまく、頼朝を超える官位である左大臣になり、後鳥羽上皇の信任を得て順風満帆であるところ、頼家の息子の公暁に暗殺されたことで歴史が変わったというのが印象的でした。
実朝を殺害して利益があるのは将軍になりたかった公暁くらいしかおらず、陰謀説が否定されているのも印象的でした。

第三章 乱への道程

・実朝暗殺により朝廷と幕府の関係が変わり、親王将軍の話が撤回され、摂家将軍として九条家と西園寺家の血統の幼少の三寅が四代将軍頼経となり、北条政子が尼将軍として裁断することになったこと、摂津源氏の頼茂が将軍になる希望が潰えて謀反を起こし、内裏が兵火で焼け落ちると、その再建のための課役に対して激しい抵抗を受け、後鳥羽上皇が北条義時に出していた要求をはねられたために北条義時追討を決心するという流れが書かれていました。
実朝一人の想定されていなかった死によって歴史の流れが大きく変わったことが印象的でした。

第四章 承久の乱勃発

・北条義時追討の院宣が出され、それが東国ではたった一人の押松という下部(院の召使い)に任され、京方についた三浦胤義から誘いを受けた三浦義村がすぐに北条義時の元にかけつけて押松を確保し、院宣が伝わらないようにした後に、有名な北条政子の尼将軍演説で北条義時追討と鎌倉幕府への攻撃を混同させ、鎌倉方の危機感を煽り、一致団結させたこと、待って迎撃するより攻勢をかけることを選択したこと、北条義時の嫡子である泰時に決死の出撃をさせたこと、恩賞を約束することで日和見させずに積極的に参加させるように采配したこと、京方では戦に慣れていないものを大将格にしたことなど、序盤の対応でかなりの差が出ていることが描写されていました。

・当時の文書をそのまま採用しているので数字が怪しい気もしますが、鎌倉方が19万の兵を動員したのに比べて京方は2万人強しか動員できなかったと大きく差がついているように思いました。

第五章 大乱決着

・瀬田や宇治の激戦を鎌倉方が制した後、京方の三浦胤義や山田重忠らは後鳥羽上皇に御所から追い出され、京に入った鎌倉方に殲滅させられたこと、京方に加わった武士はほぼ処刑され、後鳥羽上皇、順徳上皇、土御門上皇は配流され、天皇も交代させられ、新興の院近臣となった一条家・坊門家・高倉家なども没落し、完全に決着した様子が描かれていました。

・勝敗の要因として、結束し、危機感をもって当たった鎌倉方に対して、巨大な権力を持った後鳥羽上皇の独裁体制で率いた京方の動きに武士が賛同できるリアリティがなかったこと、初動の違いなどが挙げられていました。

第六章 乱後の世界

・承久の乱の後は幕府が優位に立ち、後継の天皇即位についても口出しできるようになり、幕府側で制度を決めて徴税できるようになって本格的に武士の世の中になり、また北条家の嫡流である得宗が専制権力を揮うようになっていったようです。

終章 帝王たちと承久の乱

・後鳥羽上皇は隠岐に流されたのち、還京運動はあったものの生涯京に戻ることはできなかったそうです。
上皇となってから源実朝が暗殺されるまでの間、絶大な権力を有していた後鳥羽上皇が、復帰できなくなるまでに立場が弱くなるというのは、栄枯盛衰がはっきりしているなと思いました。

○つっこみどころ

・二つの視角のうち、現代社会との比較の方は、会社やスポーツなどで例えているだけであまり意味はなく、ない方がいいくらいだと思えました。
一般の読者に理解しやすいようにと理由が述べられていましたが、この点では目的は達成できていないのではないかと思えます。
本格的に当時の状況と現代の状況の共通点や相違点を描き出していればもう少し意味があったのかもしれませんが。

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