【小村寿太郎 – 近代日本外交の体現者】レポート

【小村寿太郎 – 近代日本外交の体現者】
片山 慶隆 (著)
https://www.amazon.co.jp/dp/412102141X/

○この本を一言で表すと?

 小村寿太郎の生涯とその功罪を中心として書かれた日本近代外交史

○面白かったこと・考えたこと

・小村寿太郎については、中学校の時に社会の授業で関税自主権の回復に関わった人物として学んだだけで、それ以後に岡田 幹彦氏の「小村寿太郎―近代随一の外交家その剛毅なる魂」で初めて詳しく知りました。
その本では自分の道を全て自分で選びとっていた尊敬すべき人物として描かれ、「これほど凄まじい人物がいたのか」と感動していましたが、今回この本を読んで等身大の小村寿太郎を知ることができ、不遇な時代を含めてどのように進んでいったかを詳しく知ることができ、自分ではどうにもならないこともある中で自分を研鑽していき、実績を出していく姿に新たに感動するところがありました。

・小村寿太郎がバランスのいい人物というより、国益の拡張や安全保障に重きを置く帝国主義の申し子のような強硬な外交官だったというのは、その時代に必要な才としてそうあるべきと思っていたのかなと思いました。
時代が変わればまた違った形の外交官になれたのかどうか、考えると面白いなと思いました。

・英語に堪能で社交的だったイメージがありますが、社交的になろうと思えばなれるだけでそうあることを重視しないことが長所にも短所にもなり、その短所としての結果にも触れられていて興味深かったです。

第一章 維新の激動のなかで

・英語能力でネイティブの人たちからも称賛されていた小村寿太郎が元は漢学や古典を熱心に学び、西洋の学問を学ぶことを拒否する気持ちがあったというのは意外でした。

・恩師の小倉処平に引き上げてもらい、病気の時には看護もしてもらったというのは適塾で福沢諭吉が緒方洪庵に看病してもらったエピソードを思い出しました。
この頃の師弟関係の交わりの強さを感じました。

第二章 外務省入省

・小村寿太郎の第一の師匠である小倉処平が西南戦争で西郷軍に身を投じて三十一歳で自殺したというのは小村寿太郎にとってもやり切れないできごとだったろうなと思いました。

・小村寿太郎が最初は外務省ではなく法務省で働いていたというのは驚きでした。

・父親の借金で貧乏になり、仕事も窓際の仕事で過ごしていた不遇な時代のことは知っていましたが、その中でも研鑽し続けたというのはやはりすごいと思います。

・陸奥宗光のもとで外交官試験制度の改革に携わっていたのは初めて知りましたが、実力があれば外交官に慣れる制度を日清戦争の前に作り上げたのはすごい実績だと思いました。

第三章 日清戦争の勃発

・猛勉強でほとんど知らなかった清国の歴史について西洋で書かれた本などにもあたって学び、事情を把握したというのはすごいなと思いました。
今でも中国に関する本で日本人が書いた本よりもアメリカ人やイギリス人が書いた本の方が内容がよかったりしますし、これは昔から変わっていないのだなと印象深かったです。

・朝鮮で民政庁長官をうまくこなして実績を上げたり、講和条件の提言を行ったり、外交官として以外の広範な知識や実践力を持っているなと思いました。

・露館播遷(朝鮮国王がロシア公使館に移ったこと)、親日派閣僚惨殺など、日本に不利な状況が相次ぐ中で、ロシアに交渉して朝鮮に関する提携関係を結んでいった当時の日本の強かさもすごいなと思いました。

第四章 「ねずみ公使」として

・義和団事件の講和交渉でで清対10カ国以上という構図になり、その利害関係の調整と日本の権益の確保とロシアの進出の妨害に駆け回り、「ねずみ公使」として存在感を出したというのはすごい能力だなと思いました。

第五章 日英同盟と日露戦争

・小村寿太郎がついに外相に就任し、その中で日露協商を否定して日英同盟締結に持っていく流れと、その日英同盟の交渉の流れは当時の外交とはこのように進展していたのかと興味深かったです。

・伊藤博文がロシアに外遊と称して日露協商を画策していた話は司馬遼太郎氏の「坂の上の雲」でも出てきて、いかにも「伊藤博文が余計なことをしている」という悪玉として書かれていましたが、実際に日本政府の外交に関わるメンバーからそういう存在として見られていたというのは面白いなと思いました。

・日英同盟で国際的な地位を大きく上げ、さらに日露協商も検討していながらまだ対日路線で固まっていなかったロシアに性急に戦争をしかけたというのは、割と歴史の教科書等では「戦うべくして戦った」と書かれているのに対し、物事はそんなに一面的なものではないということを知れるなと思いました。

第六章 戦時外交と大陸進出

・日露戦争に備えてアメリカとイギリスで大きく外交活動を行うべく適切な人員を送り、大成功させたというのは、計画レベルから実践レベルまでうまくいっているすごい外交だなと思いました。

・第二次日英同盟は単なる日英同盟の延長のようなイメージでそれほど重要視していませんでしたが、日本の韓国に対する権益や清国における門戸開放の確保など、得るべきところを得た交渉だったというのは、今の日本の外交には見られない「外交力」とも言えるような力を持っていたのだなと思いました。

・アメリカに対する交渉のスムーズさ、ポーツマス条約締結におけるロシアの担当者ウィッテの一枚上の外交手腕、アメリカの立ち位置からの助言など、いろいろな思惑があって締結されたのだということに、教科書的な「日本のロシアへの勝利した結果」という認識はかなり崩れました。

第七章 同盟国の外交官

・日露戦争のすぐあとに日露協商の可能性を探って実際に締結するなど、この当たりの柔軟性はすごいなと思いました。

・小村寿太郎が秘密主義で非社交的という一面がアメリカでの世論操作でロシアに大敗し、イギリスでの平時の外交で結果を出せなかったというのは、非常時の外交官と平時の外交官に求められる資質の違いがかなり出ているなと思いました。

第八章 米中の狭間で

・今とそれぞれの立ち位置は違いながらも同じように米中の間で挟まれて苦労していたこと、その中で条約改正交渉が実って関税自主権の回復を達成したこと、小村寿太郎がその直後に体調を崩して亡くなったことなど、ある意味では日本の外交史の一つの区切りが来たのかなと思いました。

終章 小村外交とは

・小村寿太郎の功績を称えつつも負の遺産として帝国主義外交によるしこりが残り、また小村寿太郎の死とともにその外交手法が通用しなくなりつつあったというのは、時代や環境によって取り得る手法や手腕が異なるという当たり前のことをはっきりと考えさせられました。

・小村寿太郎の次男が小村寿太郎が嫌っていた新聞の世界に入ったこと、その新聞の世界の立ち位置も大きく変わっていったことなども時代の移り変わりの早さを感じさせるなと思いました。

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