• 様々な本、様々な資格の話が盛りだくさん(の予定)

【日清戦争】レポート

【日清戦争】
大谷 正 (著)
https://www.amazon.co.jp/dp/412102270X/

○この本を一言で表すと?

 日清戦争前後の軍事だけでなく政治・外交・メディア等にも触れた通史の本

○面白かったこと・考えたこと

・日清戦争前後に何があったのかについてかなり細かく説明がされていて、また戦争中の動きについても細部が描写されていて、今までに読んできた日清戦争に触れている本よりもかなり詳しい内容を知ることができました。

・著者があとがきで書いていましたが、元々はこの時代のメディア史として出版したいと考えていたが却下されて通史を書くことになった経緯があるからか、第5章のメディア史には特に力が入っていて面白かったです。

・歴史の教科書や、歴史小説、この時代・人物に触れた新書等でも大体偉人として描写されている人物を批判しているところが何度もあって新鮮に感じました。
教科書や歴史小説などはこれらの人物が書いた自伝等から引用されていることが多いのかなと思いました。
特に陸奥宗光の「蹇々録」は正確性が疑問に思われていると書かれていて、以前読んだ「蹇々録」の記述をもとに書かれていた本の内容と正反対に評価されているのは面白いなと思いました。

・通信・伝達手段が確立していないので、都度の意思疎通は難しく、当初の作戦通りに動くことが正しいとは限りませんが、最初から独断で動く軍のトップが多すぎるなと思いました。
結果的にうまくいっているところはあったかもしれませんが、こういった行動が伝統になっていって蓄積され、太平洋戦争にまで繋がっていくのかなと思いました。

第1章 戦争前夜の東アジア

・1882年の壬午軍乱の原因が、米を中心とした日本への食糧の輸出から朝鮮国内の食糧不足等があり、その収束のために清が介入してそれに合わせて日本も介入して収束したこと、この時点では清が主体となって条約上は朝鮮が清の属邦であると明記されたこと、1884年には甲申事変があり、清仏戦争があってそれに乗じて日本が朝鮮での影響を拡大しようとし、清の出兵で朝鮮の日本軍が撃退されたこと、その後日清の協調体制を約束する天津条約が締結されたことなど、日清戦争前にも様々な動きがあったそうです。

・李鴻章が進めた清の軍事改革、軍備拡張は日本より動きが早く、その規模も大きく上回っていたそうです。
太平天国の乱等を中央で抑える力がなく、郷勇と呼ばれる地方の実力者の軍が近代化を進めて乱を収め、それを中央政府が認知するという形で進み、中央政府主導で進めた日本とは大きく違っていたそうです。

・日本では清を将来の敵国としてキャッチアップしようとしたものの、海軍では大型艦の保有が難しく、水雷艇・巡洋艦・装甲海防艦などの安価な艦艇を揃える方向に向かったそうです。
陸軍では鎮台を師団に再編成して準備をしたものの、兵站部門の問題を解決できずに日清戦争に突入したそうです。

第2章 朝鮮への出兵から日清開戦へ

・日清戦争の直接の要因となった杉村公使からの朝鮮政府が清に援軍を求めたという内容の電報が、陸奥外相のサインもなく閣議に持ち込まれ、それを基に日本が朝鮮に進出する理由を得たとして、在朝鮮日本人を救出するという名目で8000名を超える混成一個旅団を朝鮮に派遣したそうです。
清側は北洋陸海軍が朝鮮近隣の検閲をする目的で回っていたために朝鮮出兵の動きが早かったそうです。

・既に原因となった朝鮮の混乱が収束しつつあり、伊藤首相も清に協調的な外交を行おうとしていたものの、陸奥外相の強硬な反対で開戦に向かったそうです。
陸奥外相の反対は、陸奥外相が不平等条約改正交渉でミスを重ねていてその失点をカバーするためだったと述べられていました。
それ以外にも清に対抗する朝鮮政策(対清・対朝鮮強硬論)が政府外でも高まっていたことが挙げられていました。

・清から朝鮮の混乱は収まっており出兵が不要という文書が来た時にはその主張に全面対決する第一次絶交書を提出したものの、ロシアやイギリスから清と日本の同時撤兵の要求がきたために日本から強引に対清開戦を行うことができなくなったそうです。
日本がその要求に従おうとしていたところに清から日本が撤兵するまで交渉に入ることができないという中国の強い返答が小村寿太郎駐清公使に来たことで日本からは第二次絶交書を送り、その後開戦を避けたい李鴻章が小出しに増援部隊を送ったことで日本は開戦意図を示したものと捉え、ついに開戦に踏み切ったそうです。

・1894年7月19日に豊島沖海戦があり、日本優勢で終わり、清の陸への増派も抑えることができたそうです。

・日本は7月23日には朝鮮王宮に侵入して国王を捉え、隠退していた大院君を担ぎ出したそうです。
王宮包囲で侵攻が遅れながら、牙山に向かう中で、兵站がうまく行かず、現地で徴用した者も物資を持って脱走するなどのトラブルが多発したそうです。
その後の成歓の戦いでは苦戦の後勝利を収めたものの、追撃に失敗して清軍の将兵は400キロ離れた平壌まで撤退したそうです。

・清軍の聶士成が成歓の戦いでもその後の撤退でも活躍したことが特に描写されていました。

第3章 朝鮮半島の占領

・日本軍の兵站の状況について説明されていました。
輸送は駄馬がメインなものの、馬を用意できなくて徒歩車両、人力輸送に頼っていたこと、輜重兵と輜重輸卒で後者は徒歩で運ぶ軍夫として扱われ、不足していたために現地から強制的に徴収して混乱していたこと、工兵や衛兵隊などを備えていた第五師団でも輜重輸卒は定員の半分以下しか動員されず、輸送能力は非常に低かったことが述べられていました。
後から向かった桂太郎中将が率いる第三師団は十分に備えていたために輸送能力が高かったそうです。

・第五師団と第三師団で第一軍と編成され、共同で平壌を攻撃することになっていたものの、先行していた第五師団を率いる野津道貫第五師団長は食糧等も不足する中で長期戦が覚悟される平壌攻撃を独断で開始したそうです。
日本は青銅製の旧式大砲メインで清はドイツ製の鋳造工鉄製大砲や輸入小銃を装備していて明らかに清のほうが装備面では優秀だったそうです。
先に攻撃を始めた混成第九旅団は兵員の約一割が損害を被る大打撃を受け、それ以外の方面で三方向から攻めて平壌侵入に成功し、清軍は白旗を揚げて退却し、日本軍が勝利を収めたそうです。
戦闘経過を見ると、士気の低い清軍が敗走しなければ日本が敗北していた可能性が高いそうです。
平壌占領で第五師団の一ヶ月分の糧食を確保でき、その後の活動を支えるほど役に立ったそうです。

・9月17日の黄海海戦は1日で終わった戦闘ですが、装備は清が上で、実際には清の水兵の士気も高かったそうですが、日没には日本側の優勢で終わり、黄海の制海権は日本が握ることができたそうです。

・戦争開始直前の1984年6月に山陽鉄道が広島まで開通し、軍隊の輸送が著しく効率化したそうです。
その流れで大本営を広島に移し、天皇以下の大本営幕僚も広島に移ったそうです。

・議会では政府に反発する民党を戦争開始後も抑えることができない状態が続いたものの、広島で開催された臨時議会では「挙国一致」が実現したそうです。

・朝鮮王宮占領後に親日開化派政権を樹立させ、甲午改革を行い、朝鮮の保護国化を狙う中で、反発する反日・反開化派の東学農民軍の反乱が起き、日本軍と朝鮮軍はこれを徹底的に殲滅し、三万人以上の死者が出たそうです。
大本営の川上操六兵站総監は「東学農民を悉く殺戮せよ」と命じたそうで、日本軍上層部の意思決定のもとで殺戮が行われた可能性が強いと述べられていました。

第4章 中国領土内への侵攻

・桂太郎第三師団長が独断で動き、それが第一軍全体で批判されたものの、既に野津道貫第五師団長が平壌において独断で攻撃し、それを許容したのもあり、不問に付されたそうです。
同じ時期に第五師団の立見尚文第10旅団長も独走し、師団長も旅団長も独断・独走の軍人だらけだったそうです。
それでも重要な拠点を落とせているのは、幕末・明治から戦い続けた経験のある軍人達だからでしょうか。

・第一軍も第二軍も現場の司令官は大本営で指示を出すものよりも先任か同輩のものが多く、戊辰戦争や西南戦争の実践体験を誇っている者ばかりで、指示を守らせるのは困難だったそうです。

・第二軍の旅順攻略戦で、旅順の清軍の二倍の兵数で、しかも旅順にくる清軍も相手にするという戦いで勝利を収めたものの、旅順虐殺事件として現代まで伝わる民間人も含めた虐殺事件があり、国際法を意識していた大山巌第二軍司令官の意思が部下に伝わっていないことと、兵士が軍服を脱いで民間人に混じっていたことが重なって起きたそうです。
日本の文明国としての戦争という立ち位置に疑問が投げかけられ、野蛮な国であるから治外法権を維持すべきという意見もあり、それまで日本寄りだった海外の記者も批判するようになっていったそうです。

・作戦目的が果たされ、直隷決戦の準備として待機するよう指示した大本営に対し、第一軍の山県司令官と桂第三師団長は独断で動き、桂第三師団長が敵中に孤立して籠城することになり、山県司令官を戦争中に更迭して野津第五師団長が第一軍司令官にしたそうです。

・野津第一軍司令官は直隷決戦の前に遼河平原を押さえるべく進軍を大本営に進言したものの直隷決戦前に軍を消費させたくない大本営に何度も断られ、ついに了承を得て遼河平原に進出したそうです。
直隷決戦を進めたい大本営に対し、現地では反対し、山東半島と台湾進出に方針が変えられ、直隷決戦は再延期されたそうです。

第5章 戦争体験と「国民」の形成

・日清戦争では新聞社が従軍記者を派遣することが多く、戦争に乗じて部数を伸ばした新聞社が多かったそうです。

・大阪朝日新聞が印刷能力を高めるために新聞社で初めてマリノニ式輪転機を導入し、記者とともに写真家や画家を送り出して戦争の描写をさせて付録・号外として発行し、発行部数を伸ばしたそうです。

・高級紙の時事新報は画報隊を組織して送り出し、徳富蘇峰の国民新聞は日本画家を送り出し、戦場風景を国内に見せていったそうです。

・戦争開始から全国で義勇兵運動が起こり、かなり大きな運動となり、政府はこれを受け止めきれずに禁止したほどだったそうです。
その後、兵站を担う軍夫が足りないことから民間で軍夫募集をするとかなりの人数が集まり、順次派遣されていったそうです。

・地方紙は、拡大している全国紙に対して、現地の対象地方の兵士の手紙等を載せる掲示板のような立ち位置になり、戦地と内地を繋ぐ役割を果たしたそうです。

・個性的な記者として、名古屋の扶桑新聞の記者鈴木経勲がピックアップされていました。虚言家として有名な人らしいですが、数多くの従軍記者経験とそれを膨らませた記事で有名になり、体験談を講演しても大人気だったそうです。

・出兵した人たちが帰国すると大歓迎され、また戦没者の記念碑や鎮魂のイベントなどが各地で自主的に開催され、国民意識の形成に繋がっていったそうです。
一方で、沖縄では国民意識形成に反発する人が多く、徴兵忌避も圧倒的に多く、地域によって反応の仕方が大きく変わることが示されていました。

第6章 下関講和条約と台湾侵攻

・延期された直隷決戦の準備が進む中で、既に旅順陥落時点から進められていた清の講和政策が動いていて、李鴻章が全権大使として来日し、日本側の強気の条件を突きつけられている中で李鴻章が小山豊太郎に銃撃されて負傷し、国際世論を気にして条件を緩和せざるを得なくなり、下関条約調印に至ったそうです。
その講和条件に対して露独仏の三国干渉で遼東半島を還付せざるを得なくなり、特にロシアに対する敵対感情が日本で形成されていったそうです。

・台湾を占領し、下関条約で正式に台湾割譲があった後、台湾では台湾民主国が立ち上がり、日本の台湾総督府と対立し、台湾総督府は政治組織から軍事組織になり、増派して台湾制圧に力を注ぎ、かなりの犠牲を払って制圧を完了したそうです。

・朝鮮では国王夫妻がロシアに接近し、新任の三浦梧楼朝鮮駐在公使が中心となって閔妃暗殺を実行し、国王は貞洞派のクーデーターでロシア公館に移送され(露館播遷)、ロシアの影響力が強まる結果に終わったそうです。

終章 日清戦争とは何だったのか

・日清戦争は日露戦争に比較して小規模と見られているものの、動員数は日露戦争の3割を超えていて十分に規模が大きな戦争だったと述べられていました。

・戦争被害者は戦死よりも病死が圧倒的に多く、戦力総数は清側が圧倒的に大きかったものの実際に動員できる数が異なり、劣勢に立っていたこと、艦隊でも清が大きく勝っていたが李鴻章指揮下の艦隊しか出せなかったことなどが述べられていました。

・日清戦争と台湾征服戦争など、また日清戦争の中でも朝鮮を舞台にした戦争と清本国を舞台にした戦争など、どこからどこまでを「日清戦争」とするかは歴史家の中でも意見が分かれているそうです。

・開戦の決断は、準備を続けていた陸軍が推していたのは当然ながら、外交失策が続いていた陸奥外相が政治生命を維持するためという動機があって強く進められたと述べられていました。
陸奥外相の戦時外交も拙劣で、三国干渉への対応も拙かったなど、全面批判されていました。

・様々な本で優秀とされている川上操六参謀次長についても、遼東半島割譲と直隷決戦に固執しすぎて本土防衛をないがしろにする危険性を生み、かなり視野が狭かったと批判されていました。

・日清戦争は日本の軍備拡張、軍国主義化と民主化の並行、経済の近代化など、様々な動きの転換点になったそうです。

○つっこみどころ

・主な戦闘について説明するところで、その戦闘の舞台となる地域の地図が掲載されていましたが、本文で説明している地名が網羅されていなくて、本文中でも地理についてはあまり説明されていなくて地名だけ登場するので地図を見ながら戦闘の進行状況を把握できませんでした。
少々地図の記載が細かくなったり、文字数が増えてもいいのでそのあたりが解決されたらもっとよく理解できたのになと思いました。
日清戦争では直隷決戦が最初から目標とされているのにその直隷の場所がどの地図でも示されておらず、結局直隷決戦がなくなったので日本軍がそこまで到達していないのかもしれませんが、どこを目指して侵攻していたのかが分かりづらかったです。
北京の近くだと本文で触れているところはありましたが。

・ロシアのアジア進出、シベリア鉄道開通などの日清戦争前の動きから、朝鮮を確保する必要性が当時議論されていたと様々な本で出てきましたが、この本ではロシアはその文脈では出てこず、ロシアが脅威ではなかったと述べられていましたが、長崎がロシアの補給地であったことやからゆきさんを派遣していたことがその理由として説明されていて、あまり説得力がありませんでした。
朝鮮と清に対しての日本の立ち位置がクローズアップされて、欧米を中心とした国際情勢の視点は国際法やニュースなどの観点しかなく、偏っているように思えました。