【ビザンツ帝国 千年の興亡と皇帝たち】レポート

【ビザンツ帝国 千年の興亡と皇帝たち】
中谷 功治 (著)
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○この本を一言で表すと?

 歴代皇帝を中心に書かれたビザンツ帝国の通史の本

○よかったところ、気になったところ

・ビザンツ帝国については学校の教科書でも触れられていて、様々なテーマの歴史に関する本でも触れられていて、名前や場所は知っていましたが、実態についてはほとんど知りませんでした。
千年続いた帝国のそれぞれの状況・時代での位置づけや動きについて、成立から滅亡までの通史としてのこの本を読んで、空白になっていた知識が埋まっていったように思えてよかったです。

・章の始めに各時代の皇帝の在位年や即位の仕方、最期、親征の有無が載っていて、本全体で最初から最後までの皇帝について書かれていましたが、即位の仕方で継承と簒奪が同じくらいの比率で驚きました。
また結構な頻度で簒奪後に前皇帝を摘眼刑に処して復活できないようにしたり、それでもたまに復位していたり、皇帝の一覧表だけでもドラマがあるなと思いました。

・ビザンツ帝国の歴史の中で女性が皇帝になったり摂政になったり、未亡人となった皇妃の再婚相手が皇帝になったり、他の地域の歴史に比べると女性の権力が強い帝国だったようにも思えました。

・真面目な内容ですがポップな文章で書かれていて読みやすく、時々歴史的出来事を茶化すような内容の文章やマンガのパロディネタも出てきて、そこが内容自体以外でも面白かったです。

・各章の最後のコラムでビザンツ帝国に関連するビザンツ帝国の内容に限らないトピックが載っていて興味深かったです。

序章 ビザンツ世界形成への序曲―四~六世紀

・皇帝を表す「アウグストゥス」「カエサル」「インペラートル」の三つの用語があり、各用語がその来歴も表しているというのは面白いなと思いました。
「アウグストゥス」は元老院と市民に擁立された皇帝、「カエサル」は家系によって継承した皇帝、「インペラートル」は軍隊に擁立された皇帝だそうです。

・六世紀のユスティニアヌス一世の時に版図が最大限に広がり、その立役者として将軍ベリサリウスの貢献があったそうです。
ベリサリウスは皇帝に頼りにされたり疎まれたりの波に揉まれながら最後まで忠節を貫いたそうです。
ビザンツ帝国の歴史全体で同じような立場にいた者は大体反逆して自分が皇帝になるパターンが多い中で、珍しい人物だなと思いました。

・ユスティニアヌス一世の時代を記した歴史家プロコピウスがいたためにこの時代の「戦史」が編纂され、現代まで伝わっているそうですが、プロコピウスはその他に「建築について」というこの時代の建築事業に関する文献も著していて、更に「秘史」という皇帝・皇后・将軍たちに悪態をつきまくる超辛口な批判の書物も著しているそうです。

第1章 ヘラクレイオス朝の皇帝とビザンツ世界―七世紀

・七世紀にはフォカスが簒奪で皇帝になった8年後にヘラクレイオスが簒奪で皇帝になり、ササン朝との戦いに勝利したものの、台頭し始めたイスラム教徒の軍に大敗したそうです。
七世紀はイスラム教徒だけでなく、ブルガリアの建国もあり、支配領域を広げながらも以降争い続ける敵も生まれた年代だったようです。

第2章 イコノクラスムと皇妃コンクール―八世紀

・イコンに対する解説があり、「崇敬」の考え方はなるほどと思いました。
偶像崇拝が聖書本文で禁止されているのにイエスの像やマリア像、絵画などが許されるのが不思議でしたが、像などを対象に「崇拝」するのではなく、像などを通して本人を敬う、というロジックだそうです。

・イコンを崇敬として許容するか、偶像崇拝として否認するかで、後者の立場でイコン破壊(イコノクラスム)の動きがあったそうです。
レオン四世の時代に皇帝腹心の将軍ミカエル・ラカノドラコンによるイコン迫害について当時の文書に残されているそうです。

・イコノクラスムは実際にあったとしてもそれほどの規模ではなかったのではないか、という説もあるそうです。
八世紀から九世紀前半を「イコノクラスムの時代」と呼んできて、高校の歴史教科書でもそのように載っているそうですが、そこまでイコノクラスムがビザンツ世界に影響を与えていたのかは著者も疑問だそうです。

・皇帝の皇妃選びの「皇妃コンクール」が九世紀だけでも四回出てくるそうです。
この皇妃コンクールは人々の階層移動が比較的流動的であった証拠ともとれるそうで、著者もその考え方に賛同しているそうです。

・コンスタンティノス六世の皇妃として皇妃コンクールで選ばれたとされるマリアがその後離婚され、女官のテオドテと再婚したことで「姦通論争」が起き、総主教のタラシオスは許容してビチュニア地方の修道院長プラトンとテオドロスが反対し、後者が後妻のテオドテの親族だったこともあって紛糾したそうです。

・ビザンツ帝国は「皇帝教皇主義」と呼ばれ、皇帝が教会に対して無制限の権力を持っていたとされることが多いそうですが、「姦通論争」のように皇帝の意見では収まらないこともあり、ビザンツ帝国の歴史全体を通して皇帝と総主教の対立が何度も見られることもあり、「皇帝教皇主義」とレッテルを貼って語るのはどうかと疑問が呈されていました。

第3章 改革者皇帝ニケフォロス一世とテマ制―九世紀

・ビザンツ帝国で最後の皇帝を除いて唯一戦死したニケフォロス一世の改革について詳しく説明されていました。
「テオファネス年代記」でニケフォロス一世が断行した十の悪しき行いが挙げられているそうですが、内容を見ると緊縮財政や新たな財源な確保、移民政策などどれもまともで、批判になっていないような気もしますが、その政策で損をする立場の人が「テオファネス年代記」の著者だったのかもしれないなと思いました。

・「テマ」という軍管区制がいつからかは諸説あるものの八世紀から九世紀の間に実施され、行政権と軍事権が統合され始めたそうです。
この「テマ」が今でもよく使われる「テーマ」の語源なのだそうです。

第4章 文人皇帝コンスタンティノス七世と貴族勢力―一〇世紀

・九世紀から一〇世紀にかけての皇帝レオン六世は男子になかなか恵まれず、四人目の妻でようやく後のコンスタンティノス七世が生まれたそうですが、どういう理由であれ結婚は三度までとする教会法に抵触して「四婚問題」として問題になったそうです。
レオン六世に抜擢されて総主教になったニコラオスはレオン六世の四度目の結婚を認めず解任され、レオン六世の死後、再度コンスタンティノス七世の時代に主教に返り咲いたニコラオスはレオン六世の四婚問題を例外として認めたそうです。

・コンスタンティノス七世は「帝国統治論」「儀典の書」「軍事書」や農業書の抜粋をまとめた「ゲオポニカ」、歴史にまつわる文書の内容を分類してまとめた「コンスタンティノス抜粋」など、自身の名を冠する書物を多数残したそうです。

・歴史家がビザンツ帝国の文化について、「マケドニア・ルネサンス」「テオドシウス朝ルネサンス」など「○○ルネサンス」という言葉が溢れていることをお笑い芸人の発言だと茶化しているのが面白かったです。

・一〇世紀頃からビザンツ帝国で有力貴族が力を持ち始め、一族で要職を占めたり皇后を輩出したり皇帝を貢献したりする事例が多数出てきたそうです。

第5章 あこがれのメガロポリスと歴史家プセルロス―一一世紀

・アイスランドや今のウクライナの地域のキエフ・ルーシなどからビザンツ帝国に向かう若者や、聖地巡礼などが一一世紀に活発化したそうです。
当時のコンスタンティノープルは人口三十五万人を超えていて、1万を超える都市すら少ないヨーロッパ地域からすると憧れの地域だったそうです。

・一一世紀から傭兵の活用や他国に支援を頼むことなどが常態化し、近隣諸国との戦争で敗北することも度々あり、ビザンツ帝国は国家としての危機を何度も迎えたそうです。

・1054年にローマ教皇とビザンツ教会が接近したものの、ミサに使用するパンに酵母を入れるか入れないかで、ローマ式は入れない、ギリシャ式は入れるで対立し、お互いに破門し合うシスマ(断絶)に繋がったそうです。

第6章 戦う皇帝アレクシオス一世と十字軍の到来―一二世紀

・一一世紀の第一回十字軍以降、ビザンツ帝国は十字軍の征服地の権利などで十字軍参加国と対立したり、周辺との戦争は多くなり、アレクシオス一世の30年以上の在位期間中は西へ東へ戦争を続ける時代だったそうです。

・傭兵の大規模利用やイタリア都市国家への特権付与などでビザンツ帝国は衰退していき、1204年に第四回十字軍によってコンスタンティノープルが攻められ、陥落したそうです。

終章 ビザンツ世界の残照―一三世紀後半~一五世紀

・1204年にビザンツ帝国が解体され、ラテン帝国となってから1261年にコンスタンティノープルをミカエル八世が取り返したそうです。

・ミカエル八世は東西教会の統合を図り、会議では合意に至ってもビザンツ帝国本国では認められなかったこと、皇帝継承でのトラブルなどもあり、小国としての領域しか確保できないまま、1453年にオスマン帝国のメフメト二世の侵攻でコンスタンティノープルが陥落し、最後の皇帝コンスタンティノス一一世は行方不明になってビザンツ帝国は完全に消滅したそうです。

○つっこみどころ

・この本のメインとなる七世紀から一二世紀まで一世紀刻みで一章という構成でしたが、時間の区切りと人の区切りが一致できていなくて、かなりずれていました。
内容が前後するところや、ある登場人物を語る際に世紀の違う時代の皇帝についても触れる必要が当然あり、章のタイトルの○世紀はない方がよかったのではないかと思いました。

・研究対象に試行が引きずられる、と著者自身も触れていましたが、専制国家の良さが所々で主張され、日本の民主主義よりも専制国家のほうが良いという提案も何度か出てきました。
意思決定の速さのみが判断基準になっていて質等には触れられておらず、短絡的だなと思いました。

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