【山本八重 —銃と十字架を生きた会津女子】レポート

【山本八重 —銃と十字架を生きた会津女子】
楠戸 義昭 (著)
https://www.amazon.co.jp/dp/4309411819/

○この本を一言で表すと?

 山本八重(新島八重)だけでなく、会津の人たちの生き様が書かれた本

○よかった点

・NHKの大河ドラマとして取り上げられる前に新島襄の奥さんが凄かったという話を聞いていて、興味をもっていたこともあってこの本を購入しました。
思っていた以上に豪傑で、また山本八重が育った会津の気風もまたすごかったということがよく伝わってきました。

・以前に、新島襄の話題が出て、「山師」な人、詐欺師的にいろいろ工作して同志社大学を設立した人ということを聞いていましたが、この本を読んでだいぶ印象が変わりました。見る視点によってある人物への印象も変わるものだなと思いました。

・会津藩が賊軍として薩長軍に攻められて負けた話は歴史上有名ですが、その背景や実態については何も知りませんでした。
この本では、どんな背景があり、どのような戦争だったのかが生々しく描かれていてよくわかりました。

「第一章 会津藩、運命の八月二十三日」、「第三章 奮戦する八重、城外で戦う女たち」、「第四章 修羅の籠城一ヶ月、ついに落城」

・薩長軍が攻めてくる時、鶴ヶ城の門が早々に閉められ、城内に入ることができなかった人たちの命運、男たちの邪魔にならぬためとわが家を死に場所と決めた女たちの覚悟が凄まじいなと思いました。

・会津婦女子が刀槍の扱いまで学んでいて、日新館童子訓の「会津什の掟」「ならぬことはならぬものです」という強固な意志も受け継いでいて、それがあるからこそ、自刃したり、戦争に参加するという珍しい事例になったことがよくわかりました。

・砲術を身に付けていた八重の奮戦もすごいと思いましたが、娘子軍として女性ながら野戦に参加した女たち、傷病者の看護や砲弾の火消などに携わっていた女たち、いろいろな場所で活躍していた女性の強さがすごいなと思いました。

第二章 会津の悲劇はなぜ起こったのか

・会津藩の初代藩主が徳川家光の異母弟の保科正之で、代々将軍家に忠誠を誓っていた家系であること、その家系に養子に入った容保が養子であるがゆえに余計にその重みを感じ、重心も反対し自身も望まなかった京都守護職を引き受けることになったこと、禁門の変で長州軍を撃退したことにより恨みを買うことになったこと、共に長州を撃退した薩摩が敵にまわったこと、容保を支持してくれていた孝明天皇が突如崩御されたこと(暗殺疑惑あり)、徳川慶喜がすぐに明治政府側に恭順を示したため、武力を向ける先が会津しか残っていなかったことなど、いろいろな背景が会津の悲劇に繋がっていて、因果関係が絡み合っているなと思いました。

第五章 新島襄との再婚

・死んだと思われていた八重の年長の兄の覚馬が生きていて、盲目になりながらも才覚を発揮して京都で重用されていたこと、そこで知り合った新島襄と再婚することになること、女学校の教師になったり、京都で初の洗礼を受けることになったり、同志社学校の設立に奔走することなど、鶴ヶ丘城での敗戦の後も八重の人生は動きが激しいなと思いました。

・八重の元夫の川崎尚之助の扱いがちょっとひどいなと思いました。尚之助は特に八重と仲が悪いわけでもなく、特に不義をしたわけでもないのに、どうして一緒に行動しなかったのかなどは知りたいなと思いました。

第六章 社会福祉活動、晩年は茶の道に

・徳富蘇峰とその兄の徳富兄弟が新島襄を尊敬しつつ、八重のことを嫌っていたこと、その理由として、徳富蘇峰が恋した女性が八重の姪で、八重にその恋愛を反対されたからというのはなかなか人間味のある話だと思いました。

新島襄が病に倒れ、それを看病する八重を見て徳富蘇峰が改心し、八重を尊敬するようになったというのはそこまで恨んでいながら認めることができた徳富蘇峰もすごいなと思いました。

・覚馬が洗礼を受けずに活動することで、京都での実働部隊の役目を担い、その役目が終わってようやく洗礼を受けたというのはなかなかすごいことだなと思いました。

最終章 不屈の会津魂を生き抜いた女たち

・明治になって、会津の不名誉を晴らそうと海外に留学し、敵軍だった薩摩の大山巌と結婚した捨松や、ペンネームを「若松賤子」として故郷の名を入れて「小公子」を翻訳した賤子、会津に戻って幼児教育や女子教育に奔走した海老名リンなど、八重だけでなく、戦争を生き抜いた女たちの生き様がすごいなと思いました。

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