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【陸奥宗光 「日本外交の祖」の生涯】レポート

【陸奥宗光 「日本外交の祖」の生涯】
佐々木 雄一 (著)
https://www.amazon.co.jp/dp/4121025091/

○この本を一言で表すと?

 陸奥宗光を様々な文献に基づいて客観的に描写した本

○時期別トピック

○父親の失脚

・紀州藩は、八代将軍吉宗の系譜と、その祖父から分かれる紀州藩藩主の系譜に分かれていた。

・紀州藩藩主の徳川治宝(はるとみ)の下で陸奥宗光の父親である伊達宗広は勘定奉行として栄達。

・徳川治宝が死去して、将軍家の系譜から紀州藩藩主に就いたことで伊達宗広は失脚。

・和歌山から東に落ちて伊都郡入郷村に落ち着く。

・当時は五條に知識層が集まっていて、陸奥宗光はそこで学問を学ぶ。

○坂本龍馬との出会いと別れ

・坂本龍馬と出会い、共に行動するようになり、勝海舟の塾にも参加するようになったが、塾仲間からは小利口な小才子としてかなり嫌われていた。

・海援隊が紀州藩に多額の賠償金を支払わせた時に、紀州藩出身の陸奥宗光はそれにかこつけて仲間に殺されかけていた。

・坂本龍馬暗殺は見廻組が実行したものだったが、陸奥宗光は紀州藩の三浦安(やすし)が紀州藩で勤王勢力を一掃しようとしていると聞いて、坂本龍馬暗殺は三浦安が犯人だと海援隊の者を焚き付け、襲撃の時は裏で隠れていた。

○獄中生活とヨーロッパ遊学

・機に乗じようとして、土佐立志社系の政府転覆計画に関与してしまい、禁獄5年の判決を受ける。

・獄中生活で徹底的に勉強する。
ベンサムの訳書や英語の辞書を引きながら、ベンサムの主著「道徳および立法の諸原理序説」を翻訳し「利学正宗」として出版。

・出獄後、ヨーロッパ遊学。総計1000ページほどの英語のノートができるほど、イギリスで議会政治等を勉強し、他の遊学している者等に驚愕される。

○和歌山政界での動き

・イギリスで議会政治を学んだことを活かし、和歌山県の政界の動きを統一し、独自の会派をつくって政治に介入しようとした。

○条約改正

・条約改正の案自体は陸奥宗光独自のものでもなかったが、その立ち位置を変えることで条約改正成立まで持っていった。

・条約改正事業が何度も頓挫したのは、外国ではなく国内に主な原因があった。外国に譲歩した案は審議期間が長期化し、世論が許さなかった。

・陸奥宗光は「対等」というキーワードを前面に出し、批判された案をほとんど変えずに条約改正を達成した。

○晩年

・日清戦争後、体調を崩しながらも政治への意欲を失わず、療養に専念すれば病気が完治する可能性があったにも関わらず、亡くなる直前まで政治に関して考え続けた。

総括

・権力欲が強くそれを隠さない所や、周りに合わせた言動をしないことから、周囲に嫌われることもあり、藩閥の外の立場であったためにクーデター、自由民権運動の利用や様々な法案・政策案の提案、自分の意見を乗せる雑誌の創刊などを通して政府に影響力を残そうとするなど、清廉潔白な人間ではなかったようです。

・権力欲、政治欲が目的であっても、そのために凄まじいまでの努力を続け、周りに自分の能力を認めさせ、結果を出した姿はすごいなと思いました。

・日本の制度への影響、外国との関係など、この尖った人物がいなければ日本の立ち位置は変わっていたかも知れません。