【哲学とは何か】レポート

【哲学とは何か】
竹田 青嗣 (著)
https://www.amazon.co.jp/dp/4140912626/

○この本を一言で表すと?

 哲学による「社会の本質」追求に至る考え方の本

○よかったところ、気になったところ

・難解な内容を平易な文章で1から説明されている本でした。難解な参考文献の概略もとてもわかりやすかったです。

・考え方を説明する図がとてもわかりやすかったです。文章を読んで理解できない内容でも図を見て理解できたことが何度もありました。

・「普遍認識」の可能性について中盤まで詰めていき、「社会の本質」についての検討を加えていく、という構成でした。

・「社会の本質」「普遍認識」が固定のものではなく、時代によって変わっていくものだという認識が興味深いと思いました。

第一章 哲学の謎と普遍認識

・ギリシャのソフィストであるゴルギアスの三つのテーゼ「およそ何ものも存在しえない。あるいは存在は証明されない」「万一存在があるとしても、決して認識されない」「万一存在が認識されたとしても、決して言語によって示しえない」で存在・認識・言語の謎が提起され、それ以降の哲学はこの謎を解明し、普遍認識を提起可能にすることが大きな目的としながら、なかなかこの謎を解明できなかったと述べられていました。

・「存在の謎」「認識の謎」「言語の謎」の中でも中心的になるのは「認識の謎」で、更に派生した「時間の謎」「同一性の謎」「意味の謎」「美の謎」「価値の謎」が紹介されていました。

・普遍認識の可能性が哲学の根本理念であり、宗教等の形而上学や独断的世界観によらない普遍認識の可能性は「認識の謎」を解明しなければ拓けないと述べられていました。

第二章 近代哲学の苦闘と「認識の謎」の解明

・ホッブズ、ルソー、カント、ヘーゲルの基本的な思想が紹介されていました。
後の章でも出てきますが、「認識の謎」は解明できていないものの、ホッブズ、ルソー、ヘーゲルの3名は近代社会の基礎となる概念を創出した人物として称えられていました。

・ニーチェによる「本体論の解体」が、言語の数学化やカントの物自体スキーマなどではなし得なかった「認識の謎」の解明に繋がったそうです。

・フッサールの現象学によって、「世界認識=確信」として、世界確信を主観的な「個別確信」と間主観的な「共同的確信」「普遍的確信」の3つのスキーマに分類されるとして、「存在=認識」の前提を否定して「認識の謎」が解明された、となるそうです。

第三章 現象学批判と「イデーン」解読

・フッサールの現象学が「認識の謎」の解明を初めてなし得たものだったにも関わらず、ハイデガーを始めとするフッサールの弟子はフッサールの現象学を理解せず、ハイデガーの存在論へと離反していったそうです。

・フッサールの「ノエシス―ノエマ」構造について説明されていました。
「ノエシス」は体験そのもので不可疑的なもの、「ノエマ」は対象に対する確信で可疑的なものとして、実感したこと自体は不可疑的であり、それらの連続から対象を確信する、ということなのだそうです。
この「ノエシス―ノエマ」構造の解釈には様々な派閥があり、誤解の多い内容なのだそうです。

第四章 「言語の謎」と「存在の謎」の解明

・言語は自然科学については説明可能なものの、人文的な内容については説明しえない、という「言語の謎」について、「認識の謎」と同様に現象学的な確信により、「信憑・了解」構造で解明できるそうです。

・「存在の謎」については、すべての生き物は自分の固有の世界を実存する、というニーチェの「本体論の解体」と、現象学的な「世界の存在についての根本的な想定・信憑」構造で解明できるそうです。

第五章 本質観取とはなにか

・「本質観取」によってのみ普遍認識が可能で、「本質観取」は内的な洞察を言葉に置き換え、間主観的に吟味して誰にでも納得できるものとなるかを確証していく手法なのだそうです。

・「不安」「なつかしさ」「医療」「エロティシズム」などの本質観取の例が載っていました。

・「心」「倫理」「社会」についてのこれまでの学問における本質追求について検討されていました。
どれも相対的であったり独断的であったりして本質を追求できていないそうです。

・人文分野で質的研究と量的研究を対立させることは無益であり、恣意的な抜粋ではなく多くのデータを本質観取することで普遍的理論を産み出しうると書かれていてなるほどと思いました。

第六章 現代哲学と社会理論の隘路

・ヨーロッパの現代哲学は近代社会の批判を「権力=暴力」という観点から行っていて、正当な権力こそが暴力を抑止するものであるというホッブズやルソーの思想から外れているものが多いそうです。

・アメリカ政治哲学のロールズや、リバタリアン・コミュニタリアン等の思想も価値の多様性に阻まれて普遍的な正義には至らないそうです。

第七章 「社会の本質学」への展望

・「社会の本質学」は現代社会が生み出す人間的矛盾の中心がどこにあるかについての普遍的な探求でなければならず、またこの矛盾をいかなる方法で克服できるかについての普遍的な探求でなければならないそうです。

・近代哲学によって生み出された「自由な市民社会」から資本主義社会になり、資本主義が成功したと思われる時代が続いたものの、経済成長が鈍化するにつれて、富の適正配分の問題、人口の適切抑制の問題が資本主義による危機が現れてきたそうです。

・ホッブズの「普遍闘争」、ルソーの「一般意志」、ヘーゲルの「相互承認」が「自由な市民社会」の基軸になっていることが改めて説明されていました。
その後の哲学はこれらに変わる普遍認識を考え出せておらず、相対的なものばかりだそうです。
著者が「欲望論」の第三巻でその内容に踏み込んだことを書く予定だそうです。

・問題を誰にとっても思考可能なものとして、開かれた「哲学のテーブル」に乗せること、そうして普遍的な原理を求めていく「言語ゲーム」であることが哲学の本義なのだそうです。
現代の問題である資本主義の克服も哲学の重要課題なのだそうです。

○つっこみどころ

・「普遍認識」が哲学の目的として掲げられていましたが、一面的な見方であるように思えました。

・著者が重要視する哲学者とそうでない哲学者がはっきりと分かれていて、「普遍認識」の可能性に貢献したかしていないかが判断基準だと思われますが、前者に対してかなり買い被っている印象を受けました。
特にニーチェについて、その論が「本体論の解体」と言えるまでの哲学者だったかどうか、ニーチェ本人が書いた著作を深読みして解釈した人たちの考えを更に深読みしたような印象を受けました。

・歴史上の哲学者の位置づけに重きを置きすぎであるように思えました。
哲学者の言説がその時代の「社会の本質」「普遍認識」を伝えていたとしても、社会がそれで動いたというのはあまりに直結的すぎるように思えました。

・市民革命以前を悪いものとして、それに代わる「自由な市民社会」が良いものだった、と一面的に捉え過ぎなようにも思えました。

・本質を認識し、言語化するために必要な「本質観取」について、内的に検討していくありきたりな手法のように思えました。
自己啓発書や成功哲学等の著者が内省の上で原理原則に思い至るプロセスと似たようなものでしょうか。
形而上学的ではあるかもしれませんが、仏教やキリスト教における悟りなども似たようなものかなと思えました。

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