【大人の道徳: 西洋近代思想を問い直す】レポート

【大人の道徳: 西洋近代思想を問い直す】
古川 雄嗣 (著)
https://www.amazon.co.jp/dp/4492223835/

○この本を一言で表すと?

 「市民」になるために必要な「道徳」について述べた本

○面白かったこと・考えたこと

・様々な哲学を論じる本かと思っていましたが、道徳について論じることは市民について論じることとして、デカルト、カント、ホッブズ、ロック、ルソーの思想をそれぞれ掘り下げて、実践する道徳について述べている本だなと思いました。

・各章のまとめが端的でかなり極端にわかりやすくまとめられていて面白かったです。

第1章 なぜ「学校」に通わなければならないのか

・「子ども」という考え方が生まれ、大人と子どもが区別されるようになり、子どもには教育をすることが求められるようになったと述べられていました。
その前提が「近代」で、「近代」とは理性に基づいて考える「科学革命」、民衆が政治を担う「市民革命」、機械技術の発展と賃金労働の主流化による「産業革命」によって変化が起きて成立した時代なのだそうです。
特に産業革命、産業主義から、労働者を育成する「生産工場」として役割が「学校」に求められていたそうです。

・市民社会は古代の民主主義の復興だそうですが、古代の民主主義は奴隷を前提としていて、現代の民主主義は市民が奴隷を兼ねているものだと述べられていました。

・労働者を生産するための教育はただの奴隷教育であり、そのための道徳は「奴隷の道徳」であり、重要なのは社会人として、市民としての「大人の道徳」だと結論が述べられていました。

第2章 なぜ「合理的」でなければならないのか

・小学校から習う「国語・算数(数学)・理科・社会」は、近代の3つの意味である「科学革命以来の合理主義」「市民革命以来の民主主義」「産業革命以来の産業主義」にとって必要な要素であり、これを強制的に学ばせるのが「義務教育」で、この「義務教育」の元の英語は「compulsory education」で、直訳すると「強制教育」となるそうです。

・神が創った自然を知るという観点から機械的自然観に変わり、人間が自然を支配できるという「知は力なり」となり、「人間は自身で生き方や社会のあり方を考え、決めなければならない」という考え方になり、それをできるのが大人であり、その大人になるためにみな「教育」を受けなければならないそうです。

第3章 なぜ「やりたいことをやりたいようにやる」のはダメなのか

・自身を客観視し、自分の欲求に忠実に動きたい自分を自律できること、欲求に逆らう自由を持てることが人間の本質であり、欲求に逆らうことができない者は動物と同じで不自由な存在であると説明されていました。
「やりたいことを自由にやる」ことを勧める教育は「奴隷の道徳」を教えることであると結論付けられていました。

第4章 なぜ「ならぬことはならぬ」のか

・カントの定言命法と、会津藩「什の掟」にある「ならぬことはならぬ」が同じであり、武士道にも通じていると述べられていました。

・定言命法に該当する道徳を守り、欲求に反することができる自律的な人間になることが人格の完成であるそうです。

・カントの「人間を『人格』として扱うということは、自分自身をも他人をも『たんなる手段としてではなく、つねに同時に目的として扱う』ということである」という言葉は何度か見聞きしていますが、その意味を平易に解説されているのが印象的でした。

第5章 なぜ「市民は国家のために死ななければならない」のか

・ホッブズ、ロック、ルソーの考えがそれぞれ説明され、その違いについて詳しく述べられていました。

・ホッブズは国家権力を社会契約の上認められたものとしつつも、制御できないリヴァイアサンとして捉え、ロックはその国家権力に対する抵抗権が市民に存在するとして、憲法の考えを加えたそうです。

・ルソーは国家は一般意志の集合体であるとして、自身を守ることと国家を守ることは同じことであり、「市民は国家のために死ななければならない」と結論付けられているそうです。
この考えから、徴兵制は左翼の思想であり、日本で徴兵制と言うと右翼的な考え方と思われるのはおかしいと述べられていました。

第6章 なぜ「誰もが市民でもあり、奴隷でもある」のか

・ルソーの思想で考えると自国で自国を守ることを放棄している日本は主権国家ではなく、主権はアメリカにある、となるそうです。

・市民であり、奴隷である現代の民主主義に生きるものは、自由を強制される人間であり、市民の徳を身に付けなければただの奴隷であり、私的利益だけでなく公共の利益を考える存在でなければならないこと、それが困難であるために民主主義は簡単に腐敗してしまう危険な政治制度であるとルソーも言っていることなどが述べられていました。

第7章 なぜ「学校は社会に対して閉じられるべき」なのか

・自由主義と共和主義は民主主義の2つの側面で、どちらかに偏ると個人主義と全体主義という両極によってしまうという話が述べられていました。

・徴兵制は共和主義にとって重要であり、民主主義の教育の場としての立ち位置から徴兵制が復活している国(2017年にスウェーデン、2018年にフランスで宣言)もあるそうです。
その徴兵制と対になる「学校」という制度で、子どもを尊重する風潮があるが、それは自由主義的で共和主義の市民を育てる教育にはつながらず、子どものままでいさせる教育になっているそうです。
学校を市民を生み出す場と考えるなら、学校は社会に対して閉じられているべきだと述べられていました。

・最後に市民と武士道は通ずるものとして、中江兆民は儒学の君子を市民と位置づけて理解し、社会主義者の幸徳秋水は社会主義の目的を武士道として位置づけていたそうです。
福沢諭吉は一身独立は一国独立に繋がり、そのために必要なのは士風であり、「やせ我慢」が必要であると述べていたそうです。

○つっこみどころ

・道徳について、その基になる考え方の説明と、道徳の実践についての話と、日本の政治経済上の話が出てきますが、それらが急に切り替わるところが多く、全体的にまとまりのないふわっとした内容で終わっている箇所が散見されたように思いました。

・政治の話になると著者の反自民党的な意見が突出していてかなり感情的に書かれているのが残念でした。
著者の考える「道徳」に反しているというのはわかる気もしますが。

・ルソーや著者の研究対象である九鬼周造、武士道などを美化し過ぎているように感じました。

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