【三条実美-維新政権の「有徳の為政者」】
内藤 一成 (著)
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○この本を一言で表すと?
明治維新の重要人物だった貴族「三条実美」の生涯と実績について述べた本
○面白かったこと・考えたこと
・三条実美については司馬遼太郎の幕末・明治の小説で、長州藩に乗せられて過激な攘夷論者になって軽い神輿として維新政府のトップに立てられた、という人物として登場していましたが、実際にはかなり重要な立場で、維新政府でも他の華族を抑えたり、トップとして執務を行っていたり、いなければ歴史が変わっているくらいに重要な人物だったのだなと思いました。
第一章 公家の名門に生まれて
・ペリー来航の60年ほど前に当時の光格天皇が実父に太上天皇の尊号を贈ろうとして幕府が阻止した「尊号事件」があったり、更にその前に朝廷が幕府に政務を委任しているという「大政委任論」が幕府側からも出るなど、朝幕関係にすでに変化の兆しがあったことが述べられていました。
・三条実美は三条実萬の四男で長男と三男が早逝し、次男も三条実美が13歳の時に亡くなり、継嗣となったそうです。
三条実美も写真で見ると線が細く、病弱に見えますし、実際に何度も病気しているみたいなので、そういった家系なのかなと思いました。
・三条実萬はペリー来航時に武家伝奏の役職で幕府の窓口になっていたり、京都で公家中の大出来者と言われていたり、親王との付き合いも多かったり、当時はかなり重要な立場にいたのだなと思いました。
・排外派だった三条実萬は安政の大獄で幕府派の関白の九条から公家の中の排外派・反幕府方針の筆頭として讒訴されたりして京都を逃げ延び、落飾してその年に亡くなり、三条実美は三条家を23歳で継ぐことになったそうです。
第二章 尊攘派公卿としての脚光
・三条実美は、公武合体派の公家から尊攘派の公家になり、四奸二嬪運動で後に協力する岩倉具視を排除する運動を主導したり、朝廷の勅使として幕府に開国への抗議に向かい、かなり過激な発言をするようになり、孝明天皇からも疎まれ、真木和泉と対面して大和行幸を強行して朝廷と幕府の対立を激化させようとし、文京三年八月十八日の政変で「七卿落ち」することになる、というアップダウンの激しい二十代を過ごしたようです。
第三章 長州・太宰府の日々
・「七卿落ち」の後でも京都で三条実美らと朝廷がまだ連携しているという噂が立ち、孝明天皇が年明けには罵詈雑言の詔旨で否定するくらいに嫌われながらも、三条実美らは偽勅だとして反論したそうです。
・禁門の変で長州の敗退後、四国連合艦隊の襲来でも敗北し、長州藩内では尊攘派が没落し、幕府恭順派が台頭して三条実美らの居場所がなくなり、筑前に移転して藩内の佐幕派の台頭で罪人扱いされ、太宰府天満宮に逃れて落ち着いたそうです。
大宰府が勤王攘夷を象徴する地になり、様々な尊攘派の人物との交流し、薩長同盟を支援することになったそうです。
・慶長二年には江戸召喚の話が出て、薩摩移送で逃れる提案をされたものの、それをはねつけて身命を賭して大宰府にとどまると宣言し、幕府の目付を脅して追い返し、第二次長州征討が失敗した後でその話がなくなったそうです。
・孝明天皇が慶応二年十二月二十五日に亡くなると、三条実美は慶応三年には政敵だった岩倉具視と手を結ぶことになったそうです。
第四章 明治新政府の太政大臣
・三条実美が明治新政府のトップになり、東京遷都を進め、新政府の太政大臣となって上級公家としての立場を利用して藩閥や政治家間の間を取り持つ立ち位置になったそうです。
・明治六年の政変で西郷隆盛の遣韓を巡るトラブルがあり、明治八年の政変では島津久光の左大臣就任で薩摩藩の大久保、西郷は動きづらくなり、不平華族の批判なども合わせて何度も攻撃を受け、太政大臣弾劾による危機があったものの、右大臣の岩倉具視の協力でなんとか島津久光を辞任に追い込むことができるなど、かなり厳しい政府運営が続いたそうです。
明治八年の政変で三条実美が負けていたら、島津久光がトップになって、和装や幕府時代への回帰が進んでその後の歴史が大きく変わったのでは、と思えました。
第五章 静かな退場
・太政官が政治の実態に合わなくなっていき、西郷・大久保・木戸・岩倉などが相次いで亡くなり、内閣制への移行を進め、三条実美はトップを退いて内大臣になり、宮中を抑えて天皇親政の動きを封じたそうです。
・黒田清隆内閣の政治混乱の後に山県有朋が内閣総理大臣への推薦を固辞して三条実美が内閣総理大臣に就任した際、内閣総理大臣の権限が大きすぎるために黒田清隆の暴走を招いたとして、権限を弱めた後に山県有朋に政権を譲ったそうです。
当時の対処としては良かったと思いますが、その後に戻せずに内閣総理大臣の権限が弱いままだったことが、その後の太平洋戦争に至る道になったのかも知れないなと思いました。
・三条実美が第一回帝国議会開院式の二ヶ月後に亡くなり、自然発生的に全国各地で追悼行事が行われ、社会現象になったそうです。
○つっこみどころ
・明治七年に周囲の声を受けて島津久光を左大臣に起用したらしいですが、その後の苦労等を考えると明らかにミスだったように思えました。
この本では描写がなかったですが、避けられない事情があったのかなと思いました。
・三条実美が政権トップを退いて伊藤博文の内閣制への移行を進めたことを、大国主命の国譲りの神話と重ねていましたが、国譲りは大国主命自身はともかくその周りでは威圧的だったり結構殺伐としていたりするのでちょっと無理があるように思いました。