【公家たちの幕末維新―ペリー来航から華族誕生へ】レポート

【公家たちの幕末維新―ペリー来航から華族誕生へ】
刑部 芳則 (著)
https://www.amazon.co.jp/dp/4121024974/

○この本を一言で表すと?

 幕末・維新の公家の動きを時系列で紹介した本

○面白かったこと・考えたこと

・公家の位階関係や、どの派閥の公家がどのように動いていたのかなどが詳しく述べられていて、他の幕末・明治維新では知らなかった内容が多くていろいろ勉強になりました。

序章 朝廷のしくみ

・摂家、清華家、大臣家、羽林家、名家、半家の区分と属する家、平堂上とそれ以外の違い、一族と門流という繋がりなど、生まれた家で力関係が決まっている状態が続いていたことがわかりました。
朝廷の官職も家柄で就けるかどうかが決まっていること、議奏と武家伝奏の両役が重要な役職であること、御所内の構造なども紹介されていて興味深かったです。

第一章 政治に関与する公家たち

・ペリー来航より前からオランダ以外のイギリス、アメリカやロシアの船が来航していて、その対応について幕府と朝廷で相談されていたこと、日米和親条約と内裏炎上の時期が重なって幕府にお金を出してもらうために認めていたこと、日米修好通商条約ではかなり朝廷で反対があり、対応策について公家に質問され、その回答が残っていること、東坊城聡長が幕府寄りだとして大原重徳が襲撃しようとして誤って徳大寺公純を襲ってしまったこと、関白九条のもとで決められた勅書について修正させるために88名の堂上公家が連署して談判したこと、その結果勅書の内容が修正されたこと、幕府への詰問や改革を定めた「戌午の密勅」が定められ、関係者が安政の大獄の目標に定められたこと、摂家の者や親王、三条実万らも永蟄居や落飾の処分にされたことなどが述べられていました。

第二章 公武合体の季節

・摂家3名と清華家の三条実万の四公を赦免するように孝明天皇の意向が幕府に伝えられても警戒されて許されず、皇族の青蓮院宮も「僧侶のくせに身持ちが悪い」ことを理由に永蟄居処分にされ、かなり朝廷に厳しい処分が下る一方で、融和策として和宮降嫁で将軍家茂と結婚させようという動きがあり、羽林家ながら近習として天皇の近くにいた岩倉具視が積極的に動くなど、公武合体への動きが盛んになったそうです。
その一環で幕府は破約攘夷を約束させられ、和宮は嫌々ながら説得されて降嫁することになり、トラブルが続いたものの、江戸城に入ったそうです。

第三章 京都の政局

・長州藩の長井雅楽が航海遠略策で開国と攘夷の折衷案を提案し、朝廷でもかなり支持されたものの、長井雅楽の文書で「謗詞事件」が起き、責められる事態になり、長州藩では尊攘派に藩論が転換され、四奸二嬪排斥運動で岩倉具視らが謹慎させられ、大原重徳の勅使派遣、第二の勅使として三条実美と姉小路公知の派遣など尊攘派に寄った幕府政策が進み、朝廷内外の勢力構造が目まぐるしく変わっていく様子が述べられていました。

第四章 攘夷をめぐる激闘

・朝廷内でより攘夷への動きが強まる中で、国事参政や国事寄人などの役職が新設され、学習院が朝廷と攘夷藩の交流の場になり、岩倉具視らを暗殺しようとする中山忠光など攘夷熱で過激な行動を取る公家が増え、幕府に圧力をかけるための賀茂両社と清水八幡宮への御幸が三条実美らに強行され、幕府の面目を潰す親征行幸まで企画され、八月十八日の政変で三条実美らが失脚して「七卿落ち」することになり、幕府よりの朝廷人事がなされ、攘夷派公家による反発と長州藩による禁門の変に繋がり、長州藩が敗北するなど、様々な勢力による争いが激化していく様が述べられていました。

第五章 朝廷の内と外

・長州藩が禁門の変で敗退した後、イギリス・フランス・アメリカ・オランダの四ヶ国艦隊が兵庫沖に出現して安政の条約(日米修好通商条約とアメリカ以外の国に同様に締結された条約)で定められた開港の履行が要求され、朝廷と幕府の間で対立がありながらも開港が決定し、公武合体派の公家も幕府に失望して復古一新を目指すようになり、将軍家茂没後に一橋慶喜が徳川家は相続するが将軍に就任しないとして将軍空位となり、徳川慶喜の参代を拒否する二十二人の列参運動が起こり、列参運動の参加者が処分され、その後すぐに孝明天皇が体調を崩して亡くなるという事態になったそうです。
よく孝明天皇暗殺説が小説だけでなく幕末に関する本でも出てきたりしますが、当時の記述を見ると病気でなくなったのは間違いないそうです。

第六章 王政復古への道程

・孝明天皇の死により、孝明天皇に処分された公家たちが朝廷に復帰する機会になり、大赦令が公布されて永蟄居・謹慎・閉門等になっていた公家が復帰し、役職者も入れ替えられ、討幕の密勅が出されたり大政奉還の聴許がなされたり、十二月九日の政変で王政復古の大号令と新政府三職の人事が発表され、明治政府がスタートしたそうです。
スタート時は藩士の位階は低く、公家の位階が高い格差のある状態だったそうです。

第七章 維新の功労

・公家と元大名、功労が認められた者が華族になる華族令が施行され、公家は家格に応じて公侯伯子男に割り振られ、「国家に偉勲ある者」が上の爵位に割り当てられたそうです。
この「国家に偉勲ある者」は明治政府発足後に役職に就いた者に認められ、幕末に活躍した公家には認められなかったためにかなりの不平不満が溜まったそうです。

終章 公家にとっての維新

・明治維新発足から年を経るにつれて公家出身の華族の役職者は減っていき、「公事録」の編纂や「孝明天皇紀」の編纂に携わるのがようやくといったところで、この両者の業務に情熱を燃やす者が多かったそうです。
公家出身華族は長生きしたものが多く、維新後の自分たちの手を離れた政府を眺めて過ごしていただろうと締められていました。

○つっこみどころ

・中公新書では珍しく、校正があまりできていないのか、主語・目的語・述語の流れがおかしい文章や主語の示している内容が不明確な文章がかなりありました。
読みづらく、何が言いたいのかを文脈で把握する必要があって大変でした。

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