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【観応の擾乱―室町幕府を二つに裂いた足利尊氏・直義兄弟の戦い】レポート

【観応の擾乱―室町幕府を二つに裂いた足利尊氏・直義兄弟の戦い】
亀田 俊和 (著)
https://www.amazon.co.jp/dp/4121024435/

○この本を一言で表すと?

  室町幕府成立直後の何度も勝利者が入れ替わり関係者の立ち位置も替わりまくる擾乱についての本

○面白かったこと・考えたこと

・後醍醐天皇の建武新政をやる気なく潰した足利尊氏と、足利尊氏に一度勝利した足利直義のトップに立った後のやる気のなさなど、中心人物のモチベーションが低い中で、日本全体を巻き込んで何度もひっくり返るような争いがあったというのは初めて知りました。
観応の擾乱は日本史の教科書でも特に気にも留めないようなキーワードだったので、ここまですごい争いだったというのに驚きました。

・新田義貞の子孫や楠正成の子孫、足利尊氏・足利直義の子孫など、鎌倉幕府滅亡の主要人物の子孫が観応の擾乱で大きく動き出しているのが興味深かったです。
新田義貞や楠正成は足利家の台頭で終わったものと思っていましたし、足利義詮は足利尊氏と足利義満の間に挟まれている将軍として名前だけ知っていましたが、ここまで大きな動きをしていた人物だったというのに驚きました。

第1章 初期室町幕府の体制

・建武の新政がスタートしてから最後の執権北条高時の遺児北条時行が挙兵した中先代の乱で、足利直義が連敗して鎌倉を占領され、それを足利尊氏が助けに行き、そのまま鎌倉で戦後処理をしていたら後醍醐天皇に謀反と解釈され、足利尊氏が自主的に謹慎していたら足利直義が連敗し、それを足利尊氏が助けて勝利して京都まで攻めて今度は負け、九州に落ち延びてから京都に巻き返して建武政権を終わらせた、という室町幕府成立までの流れもかなりの動きがあるなと思いました。

・室町幕府成立後は政務を足利直義に任せ、足利尊氏は恩賞充行と守護の任命程度しか担当せず、ほとんど足利直義が政治を執り行っていたこと、高師直が執事として両者の補佐をしながら大きな権限を持っていたことなど、初期室町幕府の体制が詳しく書かれていました。

第2章 観応の擾乱への道

・楠正成の遺児である楠正行が南朝方として挙兵し、大守護であった細川顕氏と山名時氏が大敗し、高師直・師泰兄弟が撃破して収束したこと、足利尊氏の息子でありながら足利尊氏に認知されず足利直義の養子となった足利直冬が南朝軍を撃破して長門探題となって西国に赴き、高師直・師泰が勢力を強め、それに反発した上杉重能と畠山直宗が高師直・師泰兄弟から尊重されていなかった妙吉という僧と結託して足利直義に讒言し、足利直義と高師直の対立に繋がったことなど、観応の擾乱に繋がるエピソードが挙げられていました。

第3章 観応の擾乱第一幕

・足利直義が高師直の暗殺を企てて失敗し、執事を解任した後で、高師直が御所巻でクーデターを起こして直義を失脚させ、高師直が実権を握った後、足利義詮が直義の役職を継ぎ、足利直冬が九州に転進して勢力を拡大し、高師泰に討伐を命じるも石見を突破できないままで留まり、足利直義が京都を脱出して北陸地方に向かい、南朝に降伏して南朝方の武士を味方につけ、京都に攻め入るなど、目まぐるしい動きがあったことが書かれていました。

・各地域でも直義派が優位になり、次々と尊氏派の武士が寝返り、打出浜の戦いで高師直・師泰兄弟が敗れ、京都に向かっている時に上杉修理亮の軍勢に襲撃されて高一族の主だった武将が斬殺され、足利直義の圧勝で終わったと書かれていました。

第4章 束の間の平和

・足利尊氏が敗退後京都に戻り、足利直義との会談で足利尊氏の権利を確保し、足利義詮は足利直義に敵意を持ち、足利直義の恩賞が味方に対して十分に行われず、南朝との講和交渉は決裂し、足利義詮が足利直義の政務の領域を奪っていき、講和から5ヶ月でまた決裂して足利直義が二度目の京都脱出に至ったという流れが書かれていました。

・足利直義の実子である如意王の夭折で無気力になったのか、全体的なやる気のなさが、観応の擾乱の第一幕でのやる気と比べて大きな差があるのが印象的でした。

第5章 観応の擾乱第二幕

・また足利尊氏と足利直義が対立するものの、足利尊氏もそれほどやる気はなく、足利直義との講和を進めるために南朝との和解を進めるも、足利直義の追討が講和条件になってしまい、第一幕で足利直義についていた武士の大部分が今度は足利尊氏について、今度は足利尊氏側の圧勝になり、足利直義はそのすぐ後に病死して観応の擾乱が終結したと書かれていました。

第6章 新体制の胎動

・足利尊氏が東国を、足利義詮が西国を統治するという体制に変わり、恩賞をしっかり行って尊氏派の武士が守護に就いたところで、南朝との講和条件が破棄され、楠正成の遺児の楠正儀が京都に攻め入って足利義詮が敗北して京都を没落し、関東では新田義貞の遺児義宗・義興が蜂起して足利尊氏と激戦を繰り広げ、武蔵野合戦で足利尊氏が勝利し、足利義詮も京都に巻き返しを図って勝利して支配体制を整え、また南朝方が京都を占領して足利義詮が没落し、またまた京都に巻き返して勝利し、足利尊氏が京都に戻り、今度は足利直冬が京都を占領し、これを足利尊氏・義詮親子が挟撃して破るなど、観応の擾乱後も混乱があったことが書かれていました。

終章 観応の擾乱とは何だったのか?

・観応の擾乱を経て、管領制度の実施や所領安堵と官職任命による恩賞の開始、訴訟の合理化等によって政治が安定していったこと、高師直や足利直義は保守派であり、天災の頻発での不安や不満の捌け口となる立ち位置となってしまい、旧来の政治制度でうまく回せなかったことなどが敗因に繋がったことなどが書かれていました。