【日本海軍400時間の証言: 軍令部・参謀たちが語った敗戦】レポート

【日本海軍400時間の証言: 軍令部・参謀たちが語った敗戦】
NHKスペシャル取材班 (著)
https://www.amazon.co.jp/dp/4101283737/

○この本を一言で表すと?

 海軍反省会の400時間のテープの内容と、その内容を基にした取材で番組を作成した内容が書かれている本

○面白かったこと・考えたこと

・海軍反省会という太平洋戦争時の海軍幹部達が集まって戦争を振り返る集まりが存在し、その内容を把握し、さらに取材を重ねていく、という形でNHKスペシャル取材班が番組を作っていく流れが書かれていました。

・海軍の元幹部の親族へのインタビューなど、かなり難しいタスクがあったと思いますが、着実に実態を解明していっているのはすごいなと思いました。

・戦争を始めるまでの無責任さ、自らは現場にいない特攻作戦に走り、若い命を散らせた無責任さ、悪いと思っていても口に出さず、事態が進む「やましい沈黙」など、本来やるべきことをやらない不作為がここまでの事態を引き起こすのかということ、当事者が反省するとしつつも身内に対する反省ばかりで兵士や民間人への反省がほとんどなかったということ、現代の日常でも存在する「当事者意識の欠如」「他人事」「身内大事」などがこういう形で発現していることが、やるせないなと思いました。
NHKスペシャル取材班のこの本の各章を担当している人のだれもが、「この話は私たちにとっても人ごとではない」「現代の自分たちの問題でもある」と結論で書いていて、たしかにその通りだなとも思えました。

第一章 超一級資料との出会い

・呉市海事歴史科学館の館長、戸髙一成氏から「海軍反省会」の録音テープの存在をNHKスペシャル取材班のスタッフが聞き、それを集めていくプロセスが述べられていました。
「海軍反省会」は昭和五十五年(一九八〇年)から平成三年(一九九一年)の第百三十一回まで開催されたそうです。

・参加者の中で最も若かった平塚清一元少佐が九十二歳の時にスタッフが訪問して後半のテープを受け取ることができ、海軍反省会の幹事を第一回からやっていた土肥一夫元中佐の家族からも初回からのテープを受け取ることができ、海軍反省会の大部分が記録されたテープを確保できたそうです。

・海軍反省会に参加している海軍元幹部、海軍の中枢に居た者たちの話が聞けたこと、その話の内容、言い訳に憤りを感じたことが述べられていました。

第二章 開戦 海軍あって国家なし

・海軍反省会のテープを聞いて内容を把握するために、発言者の特定と発言者の役職・ポジションを把握する必要があったそうです。

・軍令部作戦課参謀だった佐薙毅元大佐、三代元大佐の発言で、開戦しなければ陸軍に内乱を起こされる、そうなれば海軍は人数上陸軍に敵わないから陸軍に鎮圧される、と永野修身総長が話していたこと、その永野総長が昭和天皇に対して「寧ろ此際打って出るの外なし」と伝えたのは海軍の保身のためだったことが述べられていました。
東條首相も「海軍が反対すりゃできません」と言っていて、内乱が起ころうが海軍が反対すれば戦争はできなかった、という話も出てきました。

・海軍反省会の発起人である野元元少将が、皇族の伏見宮博恭王が軍令部総長に八年間も就任していたことで、軍令部の発言力が強まり、海軍の空気が出来上がったこと、その発端は昭和七年に軍令部次長だった高橋三吉大将が皇族の伏見宮博恭王を担いで軍令部総長に祭り上げ、軍令部の権限を強大化した、という話をしていたそうです。

・海軍内に設置された「第一委員会」という部署があり、その部署で昭和十六年に作成された「現情勢下に於て帝国海軍の執るべき態度」という文書があり、石油供給が禁じられ次第開戦すること、陸軍を戦争決意の方向へ誘導することが書かれてあり、開戦までのシナリオとして出来上がっていたことが述べられていました。
この第一委員会はかなり閉鎖的な組織で要職にある別部署の人間すら立入禁止にし、たった四人で活動していたそうです。
この第一委員会の報告書を読んで永野軍令部総長は鵜呑みにして昭和十六年に文書が出て以降、急に強硬派に転じて主戦論を唱えだしたそうです。
永野総長が「寧ろ此際打って出るの外なし」と伝えたのはこの文書が出た翌月のことだったそうです。
この文書を作成したのは石川信吾元少将がメインだったそうで、それ以前にも過激な文書を作成した経歴もあったそうです。

・アメリカが石油全面禁止措置を講じた直接のきっかけである南部仏印進駐を、当時の海軍はそこまでは問題ないと根拠のない確信を持っていて、アメリカが怒ったことに驚いていたこと、開戦決意は基本的に見せかけで、予算を確保するために表向きは主張していたこと、開戦直前で日米交渉妥結して予算だけを確保したいと考えていたこと、なども語られていました。

・昭和十一年に定められた帝国国防方針の「対一国以上の戦争にしない方針を再確認する」という定めを、当時の幹部も軍令部総長も海軍大臣も知らなかっただろうという話も出てきました。

・海軍が「アメリカと戦えない」と発言してそれを陸軍に聞かれると予算が削られてしまう、ということで一切言わないという内向きな話や、戦争準備計画で船がぼろぼろ沈む内容だったところを、数字をいじって勝てるように合わせたという改竄行為の話、使うことができない兵器まで載せている仮定の計画など、事前の想定までとてつもなく杜撰だったことが語られていました。

・軍令部一部一課(作戦課)は平時定員の十人しかおらず、広大な戦域をそのメンバーで作戦を立てていたこと、作戦課の課員すら前貸しで数合わせをして名対応していると辻褄合わせをしていたこと、作戦課としてミッドウェー海戦にはかなり反対したのに山本五十六長官の意志だからとして押し通されたことなど、作戦機能が機能不全に陥っていたことが述べられていました。

・この章の最後で、海軍反省会で責任感のない、どう発言してもだめだったという話題で爆笑が巻き起こり、身近な同僚への祈りの気持ちはあっても、戦争で亡くなった一般の兵士や民間人に話が及ぶことはなく、証言の多くが第三者的で他人事だったということが語られていました。

第三章 特攻 やましき沈黙

・軍令部一部部長だった中澤佑元中将の遂行会の講演で「中央で特攻を指示したことがない」と発言していて、それはおかしいと鳥巣健之助元中佐が海軍反省会で糾弾していた話が最初に出てきました。
「志願者がいれば特攻に採用」という話が語り継がれてきた中で、それが虚構であるという指摘でした。
最初の神風特攻より前に、人間魚雷と呼ばれる回天がすでに準備されていて、それを使用する指令が神風特攻の3ヶ月前には出ていたそうです。
この糾弾した鳥巣元中佐は回天作戦のために設立された第一特別基地隊で回天搭乗員を送り出す立場だったそうです。

・水交会で中澤元中将が講演で特攻に触れた時、全く中央の責任には触れていない講演で、その講演の質疑応答で妹尾作太男(せのおさだお)氏が、中澤元中将が特攻について承認したのではないかと糾弾し、中澤元中将が言い逃れようとする内容がテープに残っていたそうです。
妹尾氏は終戦の半年前に海軍兵学校を卒業して海上自衛隊に入った人で、特攻に関する内容も含めた戦争の資料を集めて研究していたそうです。

・海軍では神風特攻隊だけではなく、回天特別攻撃隊や特攻作戦のためだけに開発された「桜花」、ベニヤ製のボートに車両用エンジンを載せただけの、爆薬を積んで特攻するボート「震洋」、戦車を改造した特攻兵器「特四式内火艇」、潜水服に機雷をつけた「伏龍」など、様々な特攻兵器が考案され、計画されていたそうです。
この特攻作戦を考案し続けた人は、黒島亀人元少将で、山本五十六元帥の参謀だったそうで、海軍で神格化されてしまった人物だそうです。
この黒島元少将や、その部下の源田実元大佐が特攻作戦を企画し、進めていたそうです。
計画上は表向き志願者より特に希望するものを集める、となっていたそうですが、実際には、回天搭乗員に「マル兵器」と伝えて特攻兵器であることを伏せて募集が行われていたそうです。

・特攻の話について反論を続けていた三代元大佐の話への質疑応答で、小池猪一元中尉が、航空特攻は他の特攻とは異なり、志願という形を撮っているものの、編成という形で命令されていたことを指摘していました。
三代元大佐は人によって言い方が違っただけだ、等のまともには答えない形で対応していて、小池元中尉は指揮官の絶対数が少なく、訓練されないままに特攻していったことを指摘し、それも三代元大佐はうやむやにして返していました。

・海軍反省会の後半の幹事を担当していた平塚元少佐は、特攻についての話になった時、幹部がみな沈黙してしまったと述べていたそうです。
また、「人間を自動操縦機の代わりにする」「特攻以外でも救助しない、玉砕前提の作戦を続けた」という話題になったときも発言社以外沈黙を保っていたそうです。

・番組作成中にNHKスペシャル取材班のスタッフの一人が亡くなり、一人亡くなったことによる衝撃と、当時の一人ひとりの命が消えていくことを取材班のスタッフは重ねたそうです。

・戦犯裁判向けの想定問答集で、海軍反省会で「特攻は現場の熱意で始まった」と断言していた三代元大佐が作成したものがあり、海軍幹部の責任を真っ向から否定するものだったそうです。

・海外駐在武官だった扇一登元大佐が、淡々と、作戦担当の新兵器を使いたくなる欲求と特攻兵器を重ね合わせた発言があり、新兵器開発に血道を上げていた軍令部首脳の批判とそれに引きずられていた自分たちについて告白していたそうです。
この扇元大佐が自身の家族に伝えていた「やましき沈黙」というキーワードが出て、これが海軍の罪の意味を言い当てているとして、番組の第二回のタイトルがこれに決まったそうです。

・回天の搭乗員を送り出していた鳥巣元中佐は元回天搭乗員たちの集まりに出席して、アメリカに接収されて帰ってきた回天に乗り込んでみろと言われ、黙って乗り込んだそうです。鳥巣元中佐は戦争に対する批判の著作や回転に関する記事などを晩年まで書いていたそうです。

・神風特攻隊の直掩の役目を負っていた角田和男氏の話で、特攻作戦を命じる幹部が特攻隊員の希望に叱責で返したり、生きて帰った隊員に「臆病者」「卑怯者」と罵倒し続けたりしていた話がありました。
これらの一度生還した隊員は次の出撃まで外出も許されなかったそうで、角田氏が連れ出して送別会を開いていたそうです。
角田氏は海軍反省会の存在を知らず、反省会のテープを聞いて、かなり前から特攻作戦が考えられていたことを知って言葉がなかったそうです。
角田氏は自身が見送った特攻隊員の家族と交流して支援を続けていたそうです。

・特攻作戦でなくなった兵士が五千人以上は確実に存在し、その特定が現在でもできないそうです。

第四章 特攻それぞれの戦後

・回天の元搭乗員の佐藤登氏の話で、上官から「戦局を打開するため、若い者を必要とする兵器ができた」と告げられ、特攻兵器であることが告げられないまま募集され、周りで声をかけられたものはみな希望に○をつけたそうです。
選抜された百人の一人として飛行機の運転をしていた佐藤氏が広島の呉の潜水艦部隊の基地につき、魚雷についての講義を受けて不思議に思っていたあとで水雷参謀の少佐に回天を見せられ、それぞれ回天に一人ずつ乗り込んで、出た時にはこれが自分の棺箱だと気づいて唇の色がなかったそうです。
佐藤氏ら搭乗員は過酷な訓練を繰り返し、発進すれば相手に体当たりするかどうかにかかわらず必ず死ぬ任務のために備えていたそうです。
佐藤氏は当時、回天の搭乗員であることを誇りに思っていたそうです。

・回天の元搭乗員の坂本雅俊氏は、同僚と声を掛け合い、死の恐怖を克服しようと励まし合ったりしていたそうです。
坂本氏は多聞隊という部隊に配属され、入れば後は出撃するしかない「神の部屋」と呼ばれる部屋に六人で入り、回天に乗り込み、準備していたものの、六人の中で体調の勝山中尉のみが出撃したそうです。
その五日後に五人で回天に移って待機したときは川尻一飛曹のみが出撃して四人の搭乗員が残ったそうです。
終戦の年の八月四日に坂本氏らを載せた潜水艦が爆雷攻撃を受け、四人で回天に乗り込んだものの、坂本氏ともう一人の回天はエンジンに火が点かず、酸欠で倒れ、潜水艦の乗員に助け出されて呉の基地に帰港したところで終戦を迎えたそうです。
生き残ったことで、回天で出撃した同僚たちに申し訳ない思いをし続けていたそうです。

・軍令部第一部長の中澤元中将の最初の特攻とされる昭和十九年十月より一年以上前の日記に「必死必殺の戦法」「戦闘機による衝突撃」などのメモがあり、また軍令部第二部長の黒島元少将が特攻兵器を提言したことも書かれていたそうです。

・黒島元少将は部下からは親しみを込めて「変人参謀」と呼ばれ、慕われていて必死を前提とした作戦を考えていたとは思えなかったそうです。
ただ、作戦の実現にかける執着の強さは見られたそうです。
黒島元少将は、戦後は知人宅で世話になり、ノートに数学や人生、霊魂等について書き溜めていたそうですが、特攻については一言も触れられていなかったそうです。

・黒島元少将と共に特攻作戦を企画した源田元大佐は特攻の慰霊碑に「・・・数千人の青年が自らの意思に基づいて・・・」と書き残していたそうですが、戦死した特攻隊員の名前、部隊、出身地などが記された過去帳を生涯拝み続け、源田元大佐が亡くなった後はその妻が拝み続けていたそうです。

・特攻の企画に関わり、戦後は若者が自らの意思で特攻に志願したという発言をしていた中澤元中将は、真珠湾攻撃に対しても批判的で、特攻作戦についても「百パーセント死ぬようなやり方は、これは戦術じゃない。絶対にこれはよくない」と言っていたそうです。
ただ、特攻作戦に異議を挟むことはせず、昭和十九年十二月に軍令部第一部長の辞職を願い出て台湾の航空隊の司令官に異動させられているそうです。

・特攻の現場の幹部だった鳥巣元中佐は戦後に元隊員に詰め寄られて苦しんだことがあったそうです。
特攻兵器「桜花」の製造に携わった三木忠直元少佐も死ぬまで後悔し続けたそうです。
軍令部の参謀が戦時の責任を取らないまま戦後に関係ないとしているところ、現場に関わったものは死ぬまで苦しんだだろう、ということが述べられていました。

・回天搭乗員の生き残りの坂本氏は大津島にNHKのスタッフと共に向かい、回天で亡くなった人たちの墓の前で語りかけ、海軍反省会の内容は戦友に聞かせられないが、今の国民に知らせる意義はある、ただ、素直な純真な気持ちで出撃した友のことはきちんと評価してほしい、と語っていたそうです。

第五章 戦犯裁判 第二の戦争

・太平洋戦争中はドイツにいて大使館付武官輔だった豊田隈雄元大佐は海軍反省会で「・・・陸軍は暴力犯。海軍は知能犯。いずれも陸海軍あるを知って国あるを忘れていた。敗戦の責任は五分五分であると」と発言していたそうです。
豊田元大佐は戦争に直接に関わっていない立場から、戦犯裁判の戦争裁判事務に携わり、ナチスドイツの戦犯を裁くニュルンベルク裁判を徹底的に研究し、日本海軍の潜水艦部隊が民間商船を攻撃し、非戦闘員を射殺していた「潜水艦事件」が軍令部の指示であった場合は、軍令部総長の嶋田繁太郎大将らは監督責任に問われることから、現場の第一潜水隊司令で敗戦後に艦上で自決した有泉龍之助大佐が現場の判断で全て行ったことにし、軍令部の人間は有罪を免れたそうです。

・有泉大佐と同時期に司令部に勤務していた元海軍主計大尉で博報堂の社長・会長を歴任して最高顧問になっていた近藤道生氏の証言で、有泉大佐が民間人への攻撃を拒否して口論していたことが述べられていました。
近藤氏は無謀な作戦を立てて、現場の者に現地調達を強制し、今に至るまでの反日感情を生んだ軍令部を始めとする軍中央について批判を述べていました。

・「潜水艦事件」の証拠として、第一潜水戦隊司令の三戸寿少将(後に中将)の署名のある「作戦命令書」が東京裁判の検事側から提出されたものの、それは軍令部から指示を受けたものではなく、命令書も偽造されたものであると主張したそうです。
豊田元大佐が三戸中将に後に聞いたところ、それは本物であると言われたそうです。
当時は命令を書面で残さないように口頭で済まそうとしたものの、現場部隊の艦長たちに強く反発されて命令書が残った、という経緯のものだったそうです。
軍令部で民間人も殲滅する作戦を最も強く主張したのが富岡定俊作戦課長で、敗戦後は裁判対策に関わる史実調査部の初代部長になった人物だったそうです。
裁判に向けて実態調査にあたった中島親孝元中佐は、相談に来た者に「全部本当のことは言うな」と指導してうやむやにしたと海軍反省会で報告していたそうです。

・「潜水艦事件」の文書焼却を指導した人物がこの事件の命令書を作成した当事者である三戸元中将で、第二復員省の初代次官に就任してから戦犯容疑で逮捕されるまでの半年間の間は戦犯裁判対策にあたっていたそうです。

・オーストラリア兵およびスパイ容疑の現地住民を不当に処刑したと言われる「スラバヤ事件」では、明らかに艦隊司令部から司令が出ていて処刑時にも司令部の者が立ち会っていたにも関わらず、現地の先任参謀だった篠原多磨夫大佐に全ての罪をなすりつけ、篠原大佐は部下の罪を引き受けると決心して一人処刑された、という結末になったそうです。
当時、篠原大佐の部下だった法村剛一氏は、篠原大佐が「自分は命令していない」と裁判で証言していなければ自分も絞首刑になっていたとして、ずっと感謝していたそうです。
そして、捕虜に直接手を下したのはこの法村氏だったそうです。
法村氏の記憶では間違いなく艦隊司令部の法務科士官がその場にいて、軍法会議を取り仕切っていたため、艦隊司令部の関与は明らかだったそうです。
この法務科士官は第二復員省が逃亡させ、海軍の上層部を守ったそうです。
このスラバヤ事件で処刑されたオーストラリア兵の親族のインタビューも載っていました。日本人が被害者としての歴史ばかりを学び、戦争加害者だったことは学んでいないのではないかと親族の方に言われたそうです。

・BC級裁判では海軍の死者は二〇〇余名で、そのほとんどが現地守備隊士官、艦隊司令官以上で死刑は一人もいなかったらしいです。海軍第二復員省のまさに「上を守って下を切る」という方針が忠実に実行された結果なのだそうです。

・海軍の戦争犯罪は陸軍よりも際立っていて、グアムでは民間人の現地設営隊等を米軍がくる前に皆殺しにしたり、終戦後にナウル島で住民殺害事件を隠蔽しようと在島住民を皆殺しにしたりしていたそうです。
それぞれ生き残りが一名だけいて裁かれたそうです。
戦争に勝っていた頃から中国のサンソウ島に海軍の飛行場を作るのに邪魔だという理由で数百人を殺したり、海軍の基地の近くではスパイ容疑でかなりの数の現地住民を殺したり、かなり過激だったそうです。

・大臣や海軍高官で裁判対策の骨子を作成し、口裏合わせをしていて、また海軍最高幹部とアメリカ軍高官の間でもやり取りがされていて、結果として海軍の高官はほとんど処罰されずにすませたそうです。

○つっこみどころ

・NHKスペシャル取材班の取材の時系列で書かれているため、当時の時系列でも海軍反省会の時系列でもなく話が進み、また話が飛んではまた戻ってきたりする箇所も何度もあり、改めて見るとなかなか全体像が把握しづらかったです。

・軍令部の永野総長が昭和天皇に「寧ろ此際打って出るの外なし」と伝えた話が第二章の中で全く違う動機(海軍の保身のためという動機と、「現情勢下に於て帝国海軍の執るべき態度」で強硬派に転じたという動機)が語られていたり、話が変わってしまっていると感じるところが何点かあったように思いました。
海軍反省会のテープの発言やインタビュー結果を並べているので、食い違うのは当然だと思いますが、書き方を工夫してもらえたらわかりやすかったかなと思いました。

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