【日露戦争史 – 20世紀最初の大国間戦争】
横手 慎二 (著)
https://www.amazon.co.jp/dp/4121017927/
○この本を一言で表すと?
日露戦争に至る背景と戦争の推移について詳細に述べられた歴史の本
○面白かったこと・考えたこと
・「坂の上の雲」を1970年代に読んだ著者が、「坂の上の雲」とは違った形で日露戦争の研究史を書いた、というのが面白いなと思いました。
どこか「坂の上の雲」を意識したような内容が多かったように思いますが、異なる視点、異なる資料、異なる結論でも述べられていて面白かったです。
序章 世紀転換期の世界
・日清戦争から日露戦争までの時期は、ヨーロッパの列強の間では大きな戦争がなく、直近の戦争は1870年からその翌年までの普仏戦争だったそうです。
但し、ヨーロッパ列強とヨーロッパ外の地域での争いは続いていて、アフリカへの進出で武器の差で勝利を収め、イギリスはボーア戦争でオランダから移住してきたボーア人と近代兵器での戦争で双方大きな被害を出しながら勝利し、アメリカはスペインと戦争してキューバを独立させ、太平洋のフィリピンやグアムを割譲させ、フィリピンで徹底的な弾圧を行って占領を進めたそうです。
・清では義和団事件が起き、扶清滅洋をスローガンとして掲げ、清もこれを支援し、これに対して欧米列強と日本が軍を派遣して鎮圧したそうです。
第1章 世紀転換期の日本とロシア
・義和団事件への軍の派遣で欧米列強の軍隊と比較して日本の軍隊が活躍し、また規律正しく振る舞ったことで好意的な評価もあれば、更に黄禍論を広げ、アジアから白人を放逐する方向に進むのではという見方もされたそうです。
・遼東半島に租借地を確保したロシアが遼東半島とウラジヴォストークを結ぶ南部支線の敷設券を獲得し、これとシベリア鉄道の建設から元老の山県有朋などはロシアに対して警戒を強めたそうです。
・三国干渉で日本に遼東半島を変換させる方向にロシアを動かしたのは蔵相ウィッテで、当時帝位についたばかりのニコライ二世は日本をパートナーとする方向で考えていたというのは意外でした。
・1900年頃、日本が対露政策について戦争を含めて検討しているとき、ロシアでは東アジアは穏やかになっている認識だったという対比も興味深いなと思いました。
第2章 戦争の地理学
・シベリア単騎行で有名な福島安正が義和団事件時点には既に少将で、現地司令官として送り込まれた人物だったことを初めて知りました。
諜報活動でも有名で北京公使館附武官として清の軍事的機密情報を入手したり、中央アジア踏破でロシアのアジア進出状況の情報収集を行ったり、かなりすごい人物だなと思いました。
・日清戦争後、日露戦争までの間に日本でも地誌や地図を作成していたものの、精度がかなり悪いものしかなかった一方で、ロシアで作成された地誌や地図はかなりの精度で作られていたそうです。
・日本ではシベリア鉄道の輸送力をかなり恐れていて、「坂の上の雲」などでもそのような描写があったと思いますが、ロシア側の資料ではシベリア鉄道の完成度はかなり低く、日露戦争直前でも施設不足で運用が進んでいなかったそうです。
ただ、戦争が始まると月ごとに輸送力が向上したそうです。
・朝鮮半島については日露双方とも重要視していたものの、日本は朝鮮を作戦遂行の場としてしか見ておらず、港湾にかなりの注意を向けていた一方で、ロシアは港湾と同じくらいに朝鮮と中国の陸路の交通の便に注意を払っていたようです。
・ロシアにとっては旅順は不凍港であるものの軍港としては欠陥があり、通路が狭く封鎖が容易であることが懸念されていて、また陸路でも飛び地であり、海路でもウラジヴォストークから離れていて日本海の制海権を握れなければ機能しないことも懸念されていたそうです。
第3章 政事と軍事
・ロンドンのタイムズ紙の北京特派員として名高いジョージ・モリソンがロシアと清の間で締結された協定から「満州は事実上ロシアの保護量となるであろう」と報道したことで、イギリスを始めとしてロシアへの警戒が高まり、日本はそれに乗じて在外公使を通してロシアの不当性を国際情勢に訴える等の動きに出たそうです。
・ロシアでは外交方針をまとめることができておらず、折衷的な露清協定案を出していて、清の国際世論を巻き込んだ外交にやられながら交渉が進んでいたそうです。
・ロシアと満韓交換論でお互いの領域を定める方向に検討した日本の伊藤博文の外交はウィッテの好反応を得られたものの、ウィッテがロシアで話をまとめることができずに流れていき、1901年から開始した日英同盟交渉が思いの外順調に進み、そちらに軸足が移っていったそうです。
・ロシア内の強硬派の元近衛騎兵連隊大尉ベゾブラゾフが森林資源の開発利権を利用して朝鮮と満州の間に軍事施設を敷設する案をニコライ二世に提案し、支持を得て巨額の資金を手に極東方面への視察に向かい、現地のアレクセーエフと対立し、海軍提督ベゾブラゾフが帰還した頃に第二次満州撤兵の時期がきて関東州長官のアレクセーエフ提督の反対で撤兵取りやめになり、撤兵どころか更に七か条の要求を突きつけることになり、清に拒否され、露清交渉が決裂し、ニコライ二世はベゾブラゾフを宮廷顧問官に任命し、強硬派を支持するようになったそうです。
・日本では実態以上にロシアが東アジア侵略意欲を実現しようとしていると見て、またロシアの戦力を過小評価して短期で勝利を収めることができると見込み、参謀本部は早期開戦を求めるようになったそうです。
第4章 戦争への道程
・1903年6月にロシア陸相クロパトキンは訪日することになったものの、ニコライ二世からの直前の指示でかなり抑制的に動かざるを得ず、日本側からはかなり利己的な主張をすると見られたそうです。
一方で戦争を必ずしも望むものではないと告げ、接待された村田惇少将との雑談で日本の戦意を感じ取ると日露和解に向けて動くようになったそうです。
その後の旅順会議でクロパトキンはアレクセーエフの支持を得られ、ベゾブラゾフを封じることができたものの、現有兵力で満州と遼東半島のロシア権益を守るという難題に頭を悩ませることになったそうです。
この会議の内容についての報告を受け、アレクセーエフの意見が通り、単純な非戦論ではないもののロシアは平和を志向していると小村外相も認識していたそうです。
その認識でロシアと交渉をしようとしてラムズドルフ外相にアクセスしたものの避けられ、ニコライ二世が極東太守府を新設してその長にアレクセーエフを任命すると、窓口がアレクセーエフであるとされ、それを不当であるとウィッテ蔵相に訴えてもラムズドルフ外相が応じず、日本はロシアに対して猜疑心を募らせるようになったそうです。二ヶ月ほど経過してからロシアの強硬な回答があり、韓国にもロシアが影響力を行使する案が来て、その対案を返すと、1903年11月に日本の要求が過大であるというメッセージが来て、12月にはロシア側の要求を呑むようにという回答があり、日本では開戦準備を進めるようにしたそうです。
一方で、ロシア側では日本を軽視するアレクセーエフと日本を見直したクロパトキンの意見が対立し、一部日本側の要求を呑むかどうかニコライ二世と協議するため回答が遅れるとなり、日本は交渉中止を決定したそうです。
第5章 開戦
・1904年2月6日に外交関係の断絶を日本から告げると、極東太守であるアレクセーエフは2月9日の会議で公開しようとしていて、2月6日から日本軍が動いていているとは思っていなかったそうです。
戦争準備を進めていた日本もそれほど戦争全体の計画を綿密に立てていたわけではなく、朝鮮半島上陸後は細かく目標が変更され、割と行きあたりばったりだったようです。
・ロシア軍側では日本軍の狙いがつかめず、鉄道輸送能力が不足していて兵力の移動が困難で、最高司令官アレクセーエフと満州軍司令官クロパトキンの間で意見の不一致が続いて戦力の逐次投入を続けることになり、混乱が続いていたそうです。
・日本で国民の熱狂的支援があったことは有名ですが、ロシアでも日本の奇襲の不当性を主張して愛国心を刺激する戦争報道などもあり、当初は戦争支持されていたそうです。
ただ、ロシア側に華々しい戦果がなく、軍内上層部に対する能力面の不信、階級間の緊張などから挙国一致とはいかない状況になっていったそうです。
・最初の大きな会戦である遼陽会戦では日本側の準備が整わず一ヶ月ほどの「休憩時間」ができてロシア側の準備が整い、数においてロシア側優位になったそうです。
ただ、過小評価していた日本に緒戦で負けていたことによって今度は過大評価するようになり、ロシア軍の士気は極端に落ちていたそうです。
遼陽会戦の最後までロシア側、特にクロパトキンの過大評価が続き、日本側が勝利したものの、敗走するロシア軍を追撃する力がない程に疲弊していたそうです。
・日本では人員が想定より足らず、更に物資も足りていない状況が問題視され、国内での弾薬生産等に総力を挙げ、国家総力戦となっていったそうです。
第6章 陸と海の絆
・日本で最も恐れていたのが旅順港の太平洋艦隊が残った状態でバルト艦隊が到着することだったそうです。
・バルト艦隊の航海については「坂の上の雲」でかなりのページ数を割いて書かれていたので司令官のロジェストヴェンスキーを含めてよく知られていると思いますが、イギリスが日本と同盟したことで補給が困難になったことは史実通りに描写されていたのだなと改めて思いました。
・海からの旅順港太平洋艦隊の殲滅が困難で陸軍に旅順を落とすことを要請したこと、その必死さについても事情を含めてよく伝わってきました。
・乃木希典率いる第三軍が旅順に張り付いている中で沙河の会戦が行われ、兵力はロシアが優勢ながらクロパトキンの運用能力の不足と連携の欠如からロシア軍の方に死傷者が多く出て勝利でき、そしてまた日本軍は兵員と弾薬の不足から追撃できなかったそうです。
・旅順戦で有名な二〇三高地を争う戦いでようやく日本が占領でき、この二〇三高地から旅順港を砲撃して太平洋艦隊を戦艦一隻を除いて撃破でき、戦艦セヴァストーポリは出港して血路を開こうとして日本艦隊に撃沈され、全滅させられたそうです。
・二〇三高地占領後、太平洋艦隊が撃破されて要塞としての機能も意味もなくなった中でもロシア軍は抵抗を続け、翌月に要塞司令官ステッセルは降伏したそうです。
第7章 終局
・日露戦争開戦にあたり、日本は韓国と清に対して外交をもって国際的な立場を確保したものの、ロシアにはその配慮がなく、ロシアは清とトラブルもあったために清が日本を支援しているという疑いを持っていたそうです。
・ロシアはヨーロッパでの外交も稚拙であったため、周到に立ち回った日本に対して遅れを取り、戦争の終局が近づいた点でこのことが大きな意味を持ったそうです。
・黒溝台をロシアが占領し、それに対して日本は戦力を過小評価して見誤り、日本軍は危機に陥ったそうですが、この黒溝台占領を指揮したグリッペンベルグとクロパトキンの対立があり、グリッペンベルグはクロパトキンの指示で退却させられ、日本側が結果的には優位になったそうです。
・日露戦争の陸戦では最後の会戦になる奉天会戦で、旅順を攻略した第三軍が参加していること自体がクロパトキンを警戒させ、相対していたグリッペンベルグの後任のカウリバルスが失策し、そこから崩れてロシア軍は全軍撤退したそうです。
・バルト艦隊がフランス領インドシナ(ヴェトナム)に停泊し、援軍の第三体絵併用艦隊と合流できたものの、フランスがイギリスと関係改善を進めていたためにヴェトナムから追い出され、ウラジヴォストークに向かったそうです。
・日本側がバルト艦隊を発見し、日本海海戦になり、ここでは日本が圧勝してバルト艦隊は巡洋艦一隻と駆逐艦二隻がウラジヴォストークにたどり着けたのみとなり、制海権は完全に日本が握ったそうです。それからアメリカを介した講和条約が検討され、講和条約締結までの間に樺太全土を日本が占領したそうです。
終章 近い未来と遠い未来
・講和条約でロシア側は無賠償無割譲が前提とされて、他に人材がおらずニコライ二世から疎まれていたウィッテが交渉担当となり、最終的には樺太の北緯50度以南を割譲し、無賠償という条件で1905年9月5日に講和条約が締結されたそうです。
・戦争の見方として、ロシア側は植民地戦争と見ていて日本は大国間の戦争と見ていたことが大きな差だったと述べられていました。
・この戦争終結後、日本では陸海軍増強と大衆の社会進出の二極が対立していくようになり、ロシアでは社会運動が激化して不十分ながら議会政治が始まったそうです。
・日露戦争で日本の国際的な地位が向上し、ロシアは低下したこと、この日露戦争の記憶がシベリア出兵、1930年代の対立状況から第二次世界大戦に至り、戦後にスターリンが日露戦争の汚点を雪いだと宣言したそうです。
○つっこみどころ
・当時の文書にあたって引用されている内容が多く、ある程度客観的だと思いますが、結論ありきで裏付けられている印象もあり、かなり採用されている文書が取捨選択されてしまっているような印象も受けました。
・戦争中の地図が奉天会戦のものしかなく、できればそれまでの会戦や海戦の地図などがあれば戦争の推移がもっとわかりやすくなっただろうなと思いました。