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【日本の思想】レポート

【日本の思想】
丸山 真男 (著)
https://www.amazon.co.jp/dp/400412039X/

○この本を一言で表すと?

 日本の思想や政治に対する考察の論文集

○考えたこと

<全体>

・Ⅰ・Ⅱの読みにくさとⅢ・Ⅳの読みやすさの差に驚きました。

・各論文相互に重複する話が混じっていたりしますが、それがこの本の校了以前に著者が旅立ってしまったという事情で残されていたのかと思うと、人間味があって面白いなと思います。

<Ⅰ 日本の思想>

・日本には異なる時代の異なる思想を体系化する思想史がない、思想が無構造であるがゆえに外来の思想を個別に無検討で受け入れている、という話になるほどと思いました。

・新しい思想をどんどん受け入れ、無時間的に併存し、忘却した思想が「思い出」のように突如として噴出する、という話になるほどなと思いました。(P.11,12)

・ヨーロッパではある言説や伝統に対する反語や逆説であるものが、日本では「たまたま」実生活上の感情と適合して受け止められる、という感覚は何となくありそうだと思いました。(P.16,17)

・日本のイデオロギー批判は往々にしてイデオロギー暴露(イデオロギーであることを暴露するだけで論理的にではなく感情的に否定)に過ぎないというのは今の日本でもそうだなと思いました。(P.17~20)

・思想を「新しいから優れている」という基準で評価することを「進化論」と名付けているのは面白いなと思いました。
「思想は常に発展している」という考え方が根底にあるのだとは思いますが、「新しいもの好き」から度を越したこのカンジは日本人らしい気もします。(P.22~28)

・國體の古い漢字はニュアンスで「コクタイ」と読みそうだなと思いましたがググってもなかなか出てこず、読み方を確信するまで時間がかかりました。(P.28)

・レーデラーがショックを受けた国体に対する無限責任ぶり(摂政宮狙撃事件で内閣は総辞職し、警視総監は懲戒免官となり、犯人の郷里は正月の祝を廃して「喪」に入り、犯人が卒業した小学校の校長とクラス担任も辞職。大震災で御真影(天皇が移った写真)を取り出すために多くの学校校長が焼死。)は、当時の思想や雰囲気がリアルに伝わってくるなと思いました。(P.31,32)

・権力を集中させた天皇制が、その集中された天皇が執務を取らず元老や重臣などの「輔弼」が超憲法的存在として執務を行う体制でだれも責任をとらない「無責任」になったというのは支配する側からすればかなり都合のいい仕組みだなと思いました。(P.37,38)

・伊藤博文と森有礼の憲法における「臣民の権利義務」の審議のやり取りはかなりハイレベルだなと思いました。
この時代にこれだけの議論ができる人たちがいたというのは本当にすごいなと思います。(P.39~42)

・天皇制官僚機構と、共同体を基礎とした地主(名望家)支配という相反しそうな仕組みを「家族国家」観という考え方でまとめた支配層はとてつもない能力を持っていたのだなと思います。(P.44~48)

<Ⅱ 近代日本の思想と文学>

・文学においてもマルクスの影響力が「台風」の如く深刻だったというのは面白いなと思いました。
中学校の頃は「マルクス=社会主義の人」くらいの単純な認識しかなかったのですが、経済学や政治だけでなく、日本では政治と思想と文学にまでトータルに考える初めての考え方として哲学、さらに文学にまで影響を与えたというのは面白いなと思いました。(P.74,75)

・「短編小説の方が書く方も読む方も幅を利かせてきたのは思想性の欠如のせいだ。マルクス主義文学の輸入から文学が論理的な構造を持ち始めた」という小林秀雄の論説は面白いなと思いました。(P.78,79)

・ヨーロッパではさまざまなプロセスを経てマルクス主義に至ったところ、日本にはマルクス主義が一度に統一的な体系として持ち込まれ、象徴にすらなったというのは面白いなと思いました。
司馬遼太郎の小説で「日本人は小さな窓から世界を覘き、一驚したのちにそれに対応する」というようなことが書かれていましたが、幕末には有効に対応できたそのプロセスがマルクス主義に対しては変に作用したような気がします。(P.82,83)

・小林秀雄がマルクス主義のトータルな否定としての決断主義が「葉隠」と宮本武蔵の世界に行きついた、という結論は面白いなと思いました。(P.121)

<Ⅲ 思想のあり方について>

・人はそのものではなく、イメージで物事を判断するというのは本当にそうだと思います。「7つの習慣」で「人はあるがままにものごとを見ているのではなく、自分の思うあるがままでものごとを見ている。」というようなことが書かれていましたが、それと共通するなと思いました。(P.124~128)

・ササラ型とタコツボ型という分類の仕方は面白いなと思いました。
共通する軸から様々な考えが分化している型と専門化して互いに交流がない型をうまく言い表している気がします。(P.129~132)

・「共通の基盤がない論争」はいろいろな場面で今でも登場するなと思いました。
最近みた女子中学生のケンカもお互いのことを理解しようともせずに自分の言いたいことを言って最後に決裂していて、エライ学者も女子中学生と大して変わらないのだなと考えると面白いです。(P.134~136)

・政府、大学、ジャーナリズムのタコツボ化とそれによる被害者意識の氾濫は、今の時代にもいろいろなところで存在しているなと思います。(P.137~144)

・マスコミの内部では各社それぞれの隠語で会話して、広く社会的には均一化しているというのは、今でもそうではないかと思います。特に後者。(P.145,146)

<Ⅳ 「である」ことと「する」こと>

・「権利の上にねむる者」の話は民法でよく出てきますが、これを「である」と「する」の議論に絡めてくるのは面白いなと思いました。(P.154~156)

・徳川時代を例に「である」社会について書かれていますが、「タテ社会の人間関係」という本で日本人は単一の場に所属することから「A会社の鈴木です。」と自己紹介し、自分の属性・資格では自己紹介しないという話がありました。
これも前者は「である」、後者は「する」に繋がっているかなと思いました。(P.158~160)

・理想状態の神聖化について確かに日本人はそういう傾向があるなと思いました。(P.168~171)