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【アメリカとヨーロッパ―揺れる同盟の80年】レポート

【アメリカとヨーロッパ―揺れる同盟の80年】
渡邊 啓貴 (著)
https://www.amazon.co.jp/dp/4121025040/

○この本を一言で表すと?

 アメリカとヨーロッパの揺れ動き続ける歴史について触れた本

○面白かったこと・考えたこと

・アメリカとヨーロッパの関係は、ずっと同じような状態でも安定した状態のままでもなく、米欧間やそれ以外の地域の動きによって常に揺れ動き続けてきていて、今後も揺れ動き続けるだろう、という内容が書かれていました。

・10年程度に区切られた各時代のトピックが各章で挙げられていましたが、戦後以降でもかなりの動きがあり、各国のトップがどのような傾向の人物か、方向性が他国と一致するか乖離するか、米欧間以外との関係はどうなっているか等で各国の動きも大きく変わり、各国間の関係も大きく変わり、トップの動き次第で国家のあり方まで変わっていたりして、かなりダイナミックだなと思いました。

第1章 アメリカは「招かれた帝国」なのか

・アメリカが19世紀末までヨーロッパに対して劣等感を持ち、ヨーロッパからは優越感を持たれていて、1898年の米西戦争以降にアメリカがヨーロッパに優越していき、今に至っているそうです。
第一次世界大戦、第二次世界大戦を経てアメリカは孤立主義から介入主義になっていき、戦後は疲弊したヨーロッパをアメリカが経済援助するという一方的な関係が続いたそうです。
アメリカは経済援助の一方で、ヨーロッパ各国で勢力を高めていた共産勢力を西側から追い出すことに成功し、元はイギリス主導だった共産勢力との対立が確定的になり、冷戦が始まったそうです。

・東西に分かれて統治されていたドイツが焦点になり、ソ連によるベルリン封鎖から西ドイツ人の反共・反ソ感情が決定的になったそうです。
1949年にNATO(北大西洋条約)が成立し、ソ連はNATOを警戒してノルウェーをNATOから切り離そうと工作し、中小諸国はNATOを選択して加盟していくなど、成立後すぐに大きな動きがあったそうです。
NATOが安全保障共同体と捉えられるようになり、初代司令官に第二次世界大戦の英雄アイゼンハワーが就任し、着実に体制が固められていったそうです。

・アメリカが欧州統合を歓迎していたこともあり、欧州統合派に親米派が多く、後のEUに繋がるECSC(欧州石炭鉄鋼共同体)が1951年に、EEC(欧州経済共同体)、EURATOM(欧州原子力共同体)が1958年に成立し、統合が進んでいったそうです。
欧州統合で最も優先されたのは西ドイツの強大化を抑えることだったというのは戦後ヨーロッパについて書かれた他の本でも触れられていて、広く知られている内容なのだろうなと思いました。

・文化面でも、文化的な交流を目指してCIAが講演会や雑誌の発行、交流プログラムなどの文化的な企画を実施していたこと、他でもフルブライト奨学金のようにアメリカに学びに行くことを支援する動きがあったこと、アメリカ大衆文化がヨーロッパに広く伝わっていったことなどが挙げられていました。

第2章 アメリカの覇権下での同盟の安定

・1953年のスターリンの死後、1955年にはワルシャワ条約宣言があった日の翌日に占領軍の撤退が決まり、米英仏ソが集まるジュネーブ会談があって和解が進むと思われたものの、その翌年1956年にスエズ危機とハンガリー動乱があり、また対立が深まったそうです。

・東側に対抗するために戦備を整える西側の中でも西ドイツが単独での核保有を検討していて、それを阻止するために西欧全体で管理を検討する動きが進んだそうです。

・フランスがベトナム介入の建前として共産主義勢力に対する防衛戦争であるというドミノ理論を打ち出し、これにアメリカも同調して仏に対する経済・軍事支援を行い、フランスが1954年に撤退したあとはアメリカがベトナム政府への支援を主導することになったそうです。

・エジプトのスエズ運河国有化から始まったスエズ危機に対して、フランスとイギリスが介入しようとして米ソが国連を通して反対し、中東にアメリカが介入していき、アメリカが中東地域でのリーダーとなっていったそうです。
それ以降、イギリスはアメリカと共同歩調をとるようになり、フランスは自立した独自外交を目指すようになり、英仏で正反対の道を歩むようになったそうです。

・米英の「特別な関係」は1946年のチャーチルの発言から始まり、その後アメリカの政策にイギリスが影響を与えていったそうです。

・ドイツで東側から西側への逃亡者が増加を続けていたことから、1961年にベルリンの壁が築かれ、この壁を越えようとした建築労働者がアメリカ地区の前で被弾してもアメリカが助けなかったことで西ドイツにアメリカへの不満が募り始め、キューバ危機への対応との落差から信頼が揺らいでいったそうです。
この対応から西ドイツはアメリカからフランスに接近していったそうです。

第3章 米欧同盟の動揺―揺れるヨーロッパ

・ケネディ大統領の時代に、ヨーロッパではMLF構想(多角的核戦略構想)と柔軟反応戦略でアメリカの負担軽減と東側に対する軍事力の強化を狙ったものの、実質的にはアメリカをトップに置いた戦略であることはそれ以前と変わらず、フランスのドゴール大統領による「二つの拒絶」によって潰えたそうです。
ドゴール大統領の米英主導のNATOに対する批判、西ドイツとの接近などの動きがあり、イギリスのEEC加盟を拒絶し、フランスのNATO脱退を進めるなど、自立外交が演じられていたそうです。
ただ、フランスの動きはヨーロッパの他国をフランスから離れて結束する動きに繋がり、ドゴール大統領の思惑通りにはいかなかったそうです。

・西欧がアメリカの想定よりもEECの動きなどによって経済復興が進み、1960年代には植民地問題も解決していき、アメリカと西欧の間で経済摩擦が起きるようになっていったそうです。
アメリカの貿易赤字が拡大し、ヨーロッパへの投資抑制や体外借款・支出の制限が発表されるとヨーロッパから反発を受け、特にアメリカとフランスで反仏・反米のキャンペーンが展開されるなどの動きがあったそうです。

第4章 デタントの時代

・1962年のキューバ危機の後、1963年にはPTBT(部分的核実験停止条約)、1968年には核不拡散条約、1972年にはSALT Ⅰ(戦略兵器制限条約)・ABM(迎撃ミサイル制限)条約が締結され、デタント(東西の緊張緩和)と呼ばれる時代が到来したそうです。

・アメリカがドイツの統一に対する優先順位を下げた後、1969年に西ドイツの首相になったブラントが東ドイツを認める宣言をして、東方政策と呼ばれる独自外交を進め、アメリカは西ドイツの動きを警戒してフランスに接近したそうです。

・ベトナム戦争での敗退、ソ連の軍事力強化、ECや日本の台頭などからアメリカの存在感が後退し、1971年のニクソン大統領の時代には金ドル交換停止のニクソン・ショックがあり、アメリカのリーダーシップの衰退が明らかになっていったそうです。
ニクソンはヨーロッパを重視していなかったものの、側近のキッシンジャーがヨーロッパを重視していたためにドイツとも協調し、ソ連とも融和的な動きをとるようになっていったそうです。

・キッシンジャーが1973年を「ヨーロッパの年」としてアメリカ主体の安全保障体制を敷こうとしたところ、実質的に米に従属することになるとしてヨーロッパ同盟諸国の反対を受け、アメリカの企図した構造は実現しなかったものの、NATOヨーロッパ諸国の間で結束が生まれ、「ヨーロッパ・アイデンティティー」のようなものが芽生えていったそうです。

・中東では第四次中東戦争でイスラエルに味方した国に対してアラブ諸国が石油の禁輸措置を取り、ヨーロッパ諸国がアメリカに基地を貸さないなどの事態があったものの、ソ連を蚊帳の外に置くことができ、結果的に中東でアメリカがイニシアティブを発揮できるようになったそうです。

・ニクソン大統領がウォーターゲート事件で失脚したあと、フォード大統領の時代にはヨーロッパで大統領・首相の交代が相次ぎ、ヨーロッパの左傾化が心配されるようになったそうです。

・「力による平和」という表現を使っていた現実主義のフォード大統領から理想主義を打ち出したカーター大統領に変わると、最初は歓迎されたものの、実際にはヨーロッパへの配慮がなく、独断で政策が決定され、方向性は一貫性にかけていているように見えて評価が大きく下がったそうです。
カーター大統領は就任演説で核兵器の脅威からの解放を誓ったものの、その数ヶ月後にはERW(中性子爆弾)の開発を提唱し、ヨーロッパ諸国を巻き込もうとしたもののイギリスやオランダも反対に回り、ERW生産を撤回することになったそうです。

第5章 新冷戦からの冷戦終結への序曲

・1979年にはイラン革命があり、中東政策ではアメリカの戦力投入方針と西ヨーロッパの外交解決方針で政策が真っ向から対立していたこと、同年にソ連のアフガニスタン侵攻があり、アメリカが翌年のモスクワ・オリンピックのボイコットを呼びかけたものの西ドイツのみが追随したこと、アメリカがハンガリー動乱やプラハの春では全く介入しなかったのにイランやアフガニスタンでは介入するということにヨーロッパ諸国が理解を示さなかったことなどもあり、アメリカと西ヨーロッパの関係に極めて深刻な危機が訪れていたそうです。
しかし、1979年にサッチャー首相が就任したことを初めとして、西ヨーロッパで新米政権が次々に生まれ、フランスのミッテラン大統領もアメリカとの交流を深め、急速にアメリカ・西ヨーロッパ間の関係が深まっていったそうです。
それでもレーガン大統領のソ連のミサイルに対する迎撃戦略であるSDI(戦略防衛構想)はヨーロッパのデタントを守りたいという思想と反発し、また対立していったそうです。

・レーガン大統領はソ連の影響力が交代しつつあることから強硬姿勢を対話姿勢に変えていき、1985年にソ連でゴルバチョフ大統領が就任すると冷戦終結への流れが加速し、ペレストロイカなどのソ連改革が進められ、1989年までアメリカや西ヨーロッパ諸国はソ連に対してゴルバチョフ大統領の要請通りに待ちの姿勢でいたそうです。

第6章 冷戦終結と米欧関係

・1989年11月にベルリンの壁が崩壊し、翌年には統一ドイツが実現し、統一ドイツとしてNATOに参加することが決定するなど、時流もあって動きが早かったことが述べられていました。

・冷戦終結後のNATOのあり方が模索されるところ、湾岸戦争やコソボ紛争などの対応すべき課題が多くて割とすんなり役割を移行していったように思えました。

・クリントン政権ではアメリカがどのようにヨーロッパとの関係を想定するかがあいまいで、ヨーロッパでEU成立やESDP(欧州安全保障防衛政策)の実現など、アメリカの切り離しも懸念されるようになっていたそうです。
域外活動では米欧対立がより顕著になり、武力介入をしたがるアメリカとそれを疑問視するヨーロッパ諸国という対立がまた見られるようになったそうです。

第7章 増長するアメリカとヨーロッパ―「協調と対立」の同盟の本質

・9・11事件は米欧協力関係を頂点まで導き、集団的自衛権の発動としてアフガニスタンに攻撃するなどの動きにつながったそうです。

・冷戦後のアメリカの増長傾向が続き、「先制攻撃の論理」でイラク戦争にまで発展し、アメリカに同調するイギリスとスペイン以外はアラブ諸国だけでなくヨーロッパ諸国もアメリカのイラクへの空爆を非難していたそうです。
それでも米欧関係は決定的な決裂はお互いに不幸になるだけとして、「離婚できない悪しき結婚生活」と例えられていました。

第8章 米欧蜜月時代は続くのか

・オバマ大統領が就任してから、ブッシュ大統領の国際介入主義から国内に目を向けて国外への活動を抑制する動きになり、ヨーロッパ諸国からするとアメリカのリーダーシップが後退したと見ていたそうです。
「アラブの春」でもアメリカは介入せず、リビア空爆にも参加せず、シリアへの攻撃も思いとどまったことで、アメリカの後押しがない軍事行動が困難であることが明白になったそうです。
オバマ政権の多国間外交は現実的で巧みだったと評価されていました。

終章 トランプショックとヨーロッパ―「協調と対立」構造の中の同盟

・トランプ大統領就任後、アメリカ第一主義の政策からEUとの摩擦があり、ヨーロッパ諸国からかなり警戒されているそうです。
ヨーロッパの自立防衛体制に対して協力的になるなど、アメリカがヨーロッパの安全保障から離れることも考えられているそうです。
ただ、それでも米欧関係は決裂することの不利益が大きく、「協調」と「競争・対立」の共存という状態のまま、関係は続いていくだろうと結論付けられていました。

○つっこみどころ

・章をまたいで、または節をまたいで時系列が前後することが多く、事件や事態の動きの順序がわかりづらくなっていました。
年表などの別途時系列を確認できる資料もなかったので、事実関係・因果関係の把握が大変でした。
また、章や節でトピックもまとめられておらず、章や節ごとのテーマもわかりづらかったです。

・物事の重要さの強弱がわかりづらく、実際にはかなり重要性が異なる内容も全て同じトーンで書かれていました。
いろんなトピックに触れられているのにソ連崩壊については触れられていなかったり、トピックの選択を疑問に思えるところもありました。