【もういちど読む山川日本史】
五味 文彦 (著), 鳥海 靖 (著)
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【山川 詳説日本史図録】
詳説日本史図録編集委員会 (編集)
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<第8章 幕藩体制の確立>
・鉄砲伝来から徳川幕府成立までの60年間で一時期は日本の鉄砲が最高の精度を誇るようになったと聞いたことがあります。
鉄に対して技術を追求し続けていた刀鍛冶などの職人がいたからだと思いますが、すごいなと感心しました。(P.139,140)
・キリスト教が信者を数十万人に増やせたのはすごいなと思いました。
当時は識字率も低いでしょうし、宣教師の日本語もそれほど達者ではなかったと思いますが、それらの不利な条件を乗り越えて結果を出すイエズス会の宣教技術はすさまじいなと思いました。(P.140)
・織田信長は家督を継いでから尾張統一まで9年、美濃攻略に7年かかっていますが、それから天下統一目前で本能寺の変で死ぬまでは15年とかなりのスピードです。
最初の足元固めが肝心で時間がかかり、それが済めば後はスムーズに行く、というのはビジネスでも一緒かなと思いました。(P.141,142)(図録P.137)
・安土城は建造するための技術も他の城と異なる技術をいくつも使い、織田信長が居住する天守閣の下に天皇を住まわせて自分を神格化するという話も聞いたことがありまし、立地的にも天下の中心となる場所だったようですが、その安土城が完成から数年で潰されてしまったのはまさに諸行無常という気がします。(P.141)
・織田信長が死んでからの豊臣秀吉の天下統一はかなりの苦労があったと思います。
明智光秀を討っただけでは後継者の正当性は得られず、家臣として上位の柴田勝家を討ち、徳川家康に小牧・長久手の戦いで敗れながらも外交で認めさせ、足場を固めていったと司馬遼太郎氏の「功名が辻」で書かれていました。(P.142,143)
・秀吉の朝鮮出兵は秀吉に協力した大名に与えられる領地が国内にほとんどなかったことから海外にそれを求めたと聞いたことがあります。
また、各大名の兵力も削られることになりましたが、朝鮮出兵を逃れて関東に移って領地経営に専念できた徳川家康が相対的に勢力を強めることになりました。
一つの施策を実施した場合の副作用が思わぬ結果を生むのは現代も変わらないなと思いました。(P.145,146)
・カッパ、カルタ、ジュバン、テンプラも外来語だったというのは驚きました。(図録P.144)
・徳川家康は1600年の関ヶ原の戦い、1603年に江戸幕府成立、1615年の大坂夏の陣で豊臣氏を滅ぼす、と快進撃のようですが、実はきわどい面が幾度もあり、徳川家康の寿命(大坂夏の陣で74歳)が天下を左右するという状態だったと司馬遼太郎氏の「城塞」に書かれていました。(P.150,151)
・江戸幕府の職制(若年寄など)は三河の農村を基にしていると聞いたことがあります。
技術等を進歩させないことで長期政権となった江戸幕府の保守性が最初からある程度作り込まれていたのだとしたら、徳川家康やその側近の能力はとんでもないなと思いました。(P.151)
・オランダが現インドネシアを植民地支配したのとは対照的に日本を交易相手とした、この取り扱いの原因が何か知りたいと思いました。(図録P.153)
<第9章 幕政の安定と町人の活動>
・灌漑技術、農業技術の革新などの産業の発達が生産量を増やし、江戸時代は人口が増大したそうですが、政治や軍事だけでなく、そういった面で活躍した人の話をもうちょっと歴史の教科書でクローズアップしてもいいのではないかと思いました。(「農業全書」を著した宮崎安貞など)(P.167~169)
・交通網が整えられて大名飛脚から町飛脚まで展開されたというのは平和な時代になってようやく、と言う話かなと思いました。
司馬遼太郎氏の「龍馬がゆく」や「翔ぶが如く」に書かれていた必ず殺される薩摩飛脚は全国に張り巡らされた情報網を遮断する薩摩の特異な政策だったのかなと思いました。(P.170,171)
・河村瑞賢、菱垣廻船、樽廻船、北前船、角倉了以など、司馬遼太郎氏の「菜の花の沖」に登場した人物名や名詞がでてきて面白いなと思いました。
こういった当時の流通網やそれらを開発した人たちの話ももっとクローズアップしてほしいです。(P.171)
・林羅山の名前は聞いたことがありましたが、どういう人が良く知りませんでした。
学問で身を立てて、その後も明治になるまで大学頭として幕府の学問を司ったというのはすごいと思います。(P.176)(図録P.171)
・都市部で文化が華やかになっても庶民の生活はあまり変わらないというのはありがちだなと思いました。
現代でもそういう国はあると思います。(P.182)
・「京の着だおれ、大坂の喰いだおれ、江戸の呑みだおれ」という表現は面白いなと思いました。
ミナミの喰いだおれ人形の由来がこの時代にあったとは知りませんでした。(図録P.169)
・この時代の学問も結構進んでいたのだなと思いました。(図録P.172)
<第10章 幕藩体制の動揺>
・今の和歌山県と御三家で将軍(徳川吉宗)も輩出した紀伊藩のギャップがすごいなと思いました。(P.183)
・蘭書から救荒作物として甘藷の効用を説いた青木昆陽がすごいなと思いました。あと、当時から「薩摩芋」という名称だったのだなと思いました。
Wikipediaで見るともともとは琉球から伝わり、痩せ地の多い薩摩で利用されていたものを広めることにしたそうです。(P.185)(図録P.176)
・「暴れん坊将軍」や「大岡越前」に登場する徳川吉宗、大岡忠相、小石川薬園が出てきてにんまりしました。(P.185)
・能力で成り上がった田沼意次がすごいなと思いました。改革者であり、周りの反発がすごくて失脚したのかなと思います。(P.186)(図録P.179)
・司馬遼太郎氏の「菜の花の沖」で書かれていた松前氏、蝦夷地、工藤平助、赤蝦夷風説考、最上徳内などが出てきてにんまりしました。(P.186~188)
・「鬼平犯科帳」の長谷川平蔵が現代の刑務所に当たる設備を進言していたとは驚きました。(P.191)
・上杉治憲(上杉鷹山)は実際には改革はそれほどうまくいかなかったという説もありますが、16歳で藩主になっていろいろな改革を打ち出していったということだけでもすごいなと思いました。(P.192)(図録P.181)
・寛政の改革にしても天保の改革にしても、反感を受ける締め付けによる改革でしたが、当時の施策はこれくらい極端にやるようでないと難しかったのかなと思いました。
小説などではよく批判的に書かれていますが、仕方のない面もあったのだろうと少し同情しました。(P.190~195)
・薩摩藩の調所広郷と島津斉彬、長州藩の村田清風は司馬遼太郎氏の幕末の小説でも書かれていましたが、財政改革者、技術革新者として今の時代の政府にもこういう人がいたらいいのにな、と思いました。(P.196,197)
・ドイツ人シーボルトがオランダ人と偽って日本に来たことで日本の歴史にかなりの影響を与えているなと思いました。
司馬遼太郎氏の小説「花神」でお滝との娘イネが村田蔵六(大村益次郎)の恋人としてでてきますが、村田蔵六が長州軍を率いて幕府軍に対して連戦連勝を治めたことへの影響も大きいのではないかと思います。(学問面も精神面も)(P.204)