【もういちど読む山川日本史】 【山川 詳説日本史図録】(中世)レポート

【もういちど読む山川日本史】
五味 文彦 (著), 鳥海 靖 (著)
https://www.amazon.co.jp/dp/4634590646/

【山川 詳説日本史図録】
詳説日本史図録編集委員会 (編集)
https://www.amazon.co.jp/dp/4634025256/

<第5章 武家社会の形成>

・摂関家の支配に対して、関白に皇子が生まれなかったタイミングで実権を取り返した後三条天皇、非公式な形で天皇を引退してから実権を握る院政を始めた白河天皇はすごいなと思いました。(P.71)
摂関政治から院政になることは母方尊属による統治から父方尊属による統治への変化であり、上皇が皇位継承決定を掌握して皇太子以外の兄弟を出家させたりしているのは面白いなと思いました。(図録P.83)

・一族を争う両派に分けて一族の存続を図るのは大阪冬の陣・夏の陣の真田家が有名ですが、保元の乱の源氏・平氏の分かれ方は露骨なほどだなと思いました。(P.72)
それに比べて平治の乱では保元の乱の恩賞の差などから源氏と平氏の争いになり、決着をつけることになったのはなかなか興味深いです。(図録P.86)

・奥州藤原氏は後三年の役で勝利した藤原清衡が創始者で、かなり統治制度を整備し、後に鎌倉幕府を築き上げる人たちが急いで真似たという話を聞いたことがありますが、日本史的に本流ではないのか扱いが小さいなと思いました。(P.72)
図録の方では1ページ割いて書かれていました。(図録P.85)

・「日本最初のアニメ」と称される(らしい)「鳥獣戯画」が平安時代末期~鎌倉時代前期に描かれたというのは、当時としてはすごい発想だったと思います。(図録P.91)

・執権政治、得宗政治が全国支配に繋がったのは名越氏などを滅ぼした5代執権の時頼からだと思います。(P.81)
後の室町幕府を立てる足利氏もこの時は名越氏側について一時没落したとか。蒙古襲来もある程度情報が伝わっていて10年ほどかけて備えていたそうです。(P.97~)
日蓮が末法思想を謳って処罰されたのもこの時代だそうです。(P.92)(考察は高橋克彦著「時宗」より)

・鎌倉幕府の将軍家と北条氏とそれ以外の関係が面白いなと思います。
将軍家を天皇家の持明院統に継がせることで、大覚寺統の後醍醐天皇が反発したというのはなるほどと思いました。(図録P.95)

<第6章 武家社会の転換>

・自分に身近な人を優先してそれ以外と差別することにより後々の乱の種となるのはありがちな話だと思います。
鎌倉幕府も東国の武士を優先して西国の守護にしたり、西国の武士を疎かに扱ったことで悪党が勢力を得て、後に幕府転覆に繋がったのかなと思いました。(P.101)
建武の新政はさらに顕著な例で、重要な利害関係者を最初から疎かにして数年しかもたなかったのは当然の理かなと思いました。(P.104)

・室町幕府初期の守護大名の形勢をみると、後の戦国時代とかなり違っていて下剋上の時代の凄まじさを感じました。(P.105)

・権力者は身内こそが敵という状態は日本だけでなく世界中でみられる状況だと思いますが、足利氏も兄弟筋の宗家と鎌倉公方や堀越公方と対立したりしていたのだなと思いました。
11代以降は堀越公方の血筋から将軍が出ていたのは内乱で宗家の血筋が絶えたのかなと思います。(P.108)

・勘合の仕組みが現代日本の契約書の割印のような仕組みで、このころから筆跡・印影に頼った称号の仕組みがあったのかと思うと面白いなと思います。(P.111)

<第7章 下剋上と戦国大名>

・惣村、土一揆など、室町時代くらいから民衆の力が強くなってきたのは、統治機構が弱くなって相対的にそうなったものかなと思いました。(P.117~)

・応仁の乱が11年続いたというのは、それまでの争いなどからすると特別に長いように思います。(P.121,122)
対立関係の重層構造が原因でしょうか。(図録P.120)

・室町時代になって1日2食から3食になったり、うどんやとうふなどが出回ったり、茶を飲む習慣ができたり、現代に続く習慣ができたのは何か理由があるのでしょうか。(P.123)

・戦国大名を扱うページ数が6ページと少ないのはなんだか残念な気がします。
応仁の乱で京都から脱出した伊勢新九郎が北条早雲となり、続く氏綱・氏康がかなりの名君だったこと、他にもいろいろ小説になったりしていますが、日本史の通史としてはあまり取り上げるトピックではないのかと思うと少し寂しい気がします。(P.131~136)

・下剋上の連鎖は見ていて面白いです。
有名な戦国大名も出自が国人だったり(毛利元就、浅井長政、長宗我部元親、徳川家康)、執事の三好家が下剋上したあとでその家宰の松永久秀が下剋上したり、まさにそういう時代だったのだなと思いました。(図録P.133)

・「浮橋」という言葉は聞いたことがありますが、小舟を繋いで架けたり外したりできるようにする仕組みだということは初めて知りました。
橋を戦略上の物資と考えると大変有効なやり方だと思いました。(図録P.134)

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