【ごまかさない仏教: 仏・法・僧から問い直す】
佐々木 閑 (著), 宮崎 哲弥 (著)
https://www.amazon.co.jp/dp/4106038188/
○この本を一言で表すと?
二人の仏教者が仏・法・僧について原典や由来等を含めて対話形式で明らかにしていく本
○この本を読んで興味深かった点・考えたこと
・仏教の入門書の本だと思って購入しましたが、仏教の基本である「仏・法・僧」について原典や解釈等で明らかにしていく、かなり難解な内容の本でした。
基本的なところがかなり深掘りされていて、初学者の身ではなかなかついていけないところも多かったですが、いろいろ考えさせられながら読みました。
・対談する二人が共通するところが多いながらもお互いの意見が違うところもあり、お互いの説を尊重しながらも異論を挟み合っているのが面白いなと思いました。
・仏教の論理がかなり科学的であること、理系の人が意外とハマることが書かれていましたが、確かにその通りだなと思えるようになりました。
「サピエンス全史」「ホモ・デウス」の著者ユヴァル・ノア・ハラリが仏教の内容をかなり深く理解している、ということが「はじめに」で述べられていましたが、「ホモ・デウス」で書かれていた「自由意志」の否定と、仏教の六識等に関する考え方の一致は確かにそうだなと思いました。
出家すると生産的な活動を禁止されるということは、ただひたすらに考え抜くこと等ができた人たちだったわけで、その中で現代科学がようやく到達しそうなことに思索だけで到達できた人もいたのかなと、ふと思いました。
序章 仏教とは何か
・「ブッポウソウ」という鳥が「ブッポウソウ」と鳴かないこと、コノハズクというフクロウの仲間がそう鳴くことは知っていましたが、それが判明したのが1935年のラジオを聞いたリスナーの回答からだった、というのは初めて知りました。
・浄土宗や浄土真宗でパーリ語の三帰依文を唱えること、その由来は明治の仏教排斥に対抗するためにスリランカなどで仏教の原典にあたってきたという割と新しい由来だったりすること、宗派的にはお釈迦様に祈るのではなく阿弥陀様に祈るはずであることなど、ちょっとした著者の体験からつっこんでいくところが面白いなと思いました。
・仏教の聖典である初期経典の阿含・ニカーヤについて詳しく書かれていましたが、これらについて初めて知りました。
ニカーヤ五部のうち、阿含経典は小部を除いた四部しか漢語に翻訳されていないために小部が軽視されることもあったことなど、翻訳の有無によって解釈まで変わってくるのが面白いなと思いました。
これらに比べて大乗仏教の経典は500年以上後のものであること、伝来経路が異なることなども興味深かったです。
第一章 仏―ブッダとは何者か
・釈迦がゴータマの出身部族シャカ族(シャーキャ族)が由来だということは知っていましたが、ブッダがキリストと同じように「目覚めた者」という一般名詞であって、固有名詞でなかったことは初めて知りました。
・ブッダの四大事(誕生・成道・初転法輪・入滅)は何となく知っていましたが、誕生と成道は後から作成された仏典に載っている話で、宗教団体として必要だったから後から付け足されたという話は面白いなと思いました。
・法華経が「ブッダの本意は初転法輪ではなく第二の転法輪で初めて顕された」と主張している話も初めて知りました。
・ブッダの修行生活で、二人の先生アーラーラ・カーラーマ師とウッダカ・ラーマプッタ師から瞑想・禅定によって「無所有処(「何もない」という想いが定着した心的状況)」「非想非非想処(「ないのでもなく、あるのでもない」という境地)」に達した話、徹底的な断食など六年間やってもそれ以上悟れなかった話、その後体が回復してから菩提樹の木陰で悟った話はいろいろ象徴的で面白いなと思いました。
・梵天勧請の話はマンガなどで読んだことがありましたが、それまで自身の悟りだけ考えていたブッダが梵天に何度も諭されて他者の悟りのために動くようになった、という内容は初めて知り、面白い転換点だなと思いました。
・出家すると生産的なことをしてはならず、布施によって生きることが基本ですが、個人ではなくサンガという集団なら金融もOKだったということ、単独では存続できず、必ず他の集団に寄り添って運営されなければならない組織で、成立から二五〇〇年以上続いている組織、という際立った事業継続性は確かにすごいなと思いました。
第二章 法―釈迦の真意はどこにあるのか
・ブッダの説いた教法は「縁起」「一切皆苦」「諸法無我」「諸行無常」の四つだとして、順に語られていました。
・「縁起」は元は「因縁生起」の略で、「この世界の物事はすべて原因と結果の関係で動いている」ということだそうです。
・ブッダが宗教団体・サンガを運営する上で、在家の人たちが布施をする理由づけのためにも輪廻の考え方を受け入れざるを得なかった、としているのが面白い話だなと思いました。
・「一切皆苦」の「苦」はパーリ語の「ドゥッカ」から来ていて、「楽・苦・不苦不楽」全てが「ドゥッカ」で生きていること全てが「ドゥッカ」であり、全ては生老病死の四苦の上に成り立っている、という考え方は一貫しているなと思いました。
・「四苦八苦する」とドタバタ苦労することの慣用句になっている八苦の残り四苦である「愛別離苦」「怨憎会苦」「求不得苦」「五蘊盛苦」は前半二つは知っていましたが、後半二つは初めて知りました。
・キリスト教の「一切皆楽」のように大乗仏教では「常楽我浄」と「一切皆苦」をひっくり返してしまったという話は興味深いなと思いました。
・自分が「無い」という「無我」の考え方は、自由意志が存在しないという現代の学説と一致して興味深いなと思いました。
・自分の所有物があるという「我所見」「有身見」などはなかなか離れがたいものだろうなと思いました。
「見」という字が使われる場合、悪しき見解や偏見といった意味合いのパーリ語で「ディッティ」、サンスクリットで「ドリシュティ」という言葉の漢語訳だというのは初めて知りました。
・「無常」は割と分かりやすい概念だと思いましたが、三世実有説の時間は未来から過去に流れている、という話はなかなか難しい話だなと思いました。
第三章 僧―ブッダはいかに教団を運営したか
・「仏・法・僧」の「僧」は一個人のお坊さんのことではなく、集団を意味する「僧伽(サンガ)」のことであって、四人以上の比丘、比丘尼が集まり、律蔵に基づいて修行生活を送るサンガのことだったそうです。
・日本には仏教伝来で四人以上の集団、受戒儀式に十人以上が必要となるために結局十人以上の集団が来なければならず、ようやく十五人まとめて来た鑑真とその弟子にも国から独立した組織としてのサンガの設立を認めず、結局現在に至るまでサンガが存在しない珍しい仏教になってしまったというのは面白いなと思いました。
・禅宗の永平寺はサンガに近いそうですが、それ以外だとオウム真理教が最もサンガに近かったというのも面白いなと思いました。
・五戒、八斎戒、十戒の、五戒は気を付けていればできなくもない戒め、八斎戒はたまになら守れる戒めですが、十戒はかなりハードルが高いなと思いました。